■スラヴォミール・ラウィッツを含む計4名の男たちは、ヤクーツク近郊の収容所から南下し、バイカル湖、ゴビ砂漠、ヒマラヤ山脈を越えたインドまでの6500キロの距離を、徒歩で、約1年かけて踏破した事になる

 スラヴォミール・ラウィッツ、海津正彦・訳
『脱出記、シベリアからインドまで歩いた男たち』
(ソニー・マガジンズ)
 を読了したのは、12日(水)の午前5時40分ごろの事である。
 結末までのあらすじは、おおよそ分かっていたのだが、最後の約20ページがなかなか読了出来ないまま、数日が経っていた。

 スラヴォミール・ラウィッツを含む計4名の男たちは、ヤクーツク近郊の収容所から南下し、バイカル湖、ゴビ砂漠、ヒマラヤ山脈を越えたインドまでの6500キロの距離を、徒歩で、約1年かけて踏破した事になる。
 そして、イギリス軍に救助されたのだ。
 最後の部分に何が書いてあるのかと思えば、収容された病院での、極限状態を生き抜いてきたことから生じる
「後遺症」 
 についてであった。
 もう充分回復していると思う本人の意思に反して、狂気ともいえる行動をとったのである。
 それは、彼だけがそうだったわけではなく、仲間たちも同じであった。
 病室に入って二日目には、夢遊病のようになり、病室で大暴れに暴れて、看護兵が4人がかりで抑えつけたと言うが、彼にはその記憶がまるで無かった。
 また、次のような異様な行動をとった。

「夜になると叫び声をあげ、正気を失ってうわごとを口走った。
 そしてもう一度、ロシア人たちの手から逃げ出し、私の内なる砂漠を横断し、私の内なる山岳を乗り越えた。
 また、くる日もくる日も、与えられたパンを半分だけ食べ、残りは、マットレスの下や枕カバーの中に、こそこそと隠した」
(「待ちに待った〈その日〉」)

 その行動は、収容所を脱出するための準備期間中の行動そのものであった。日々、配給されるパンの一部を隠して、貯めて、逃亡中の食料としたのである。
 そして、最も深刻な状態は十日後に訪れたという。
 病院のベッドで、彼らは一週間、生死の境をさまよったのだ。

■「あの人たちを見ていると、自分のほうが卑しい気がする。これまで、人間としての尊厳を失った人々に対する、苦々しい記憶がわだかまっていたが、あの人たちがそれを、ほぼ一掃してくれた」

 話は戻るが、本書中で、貧しい地元民たちに助けられるくだりが幾つもある。決して有り余っているわけではない貧しい暮らしぶりなのに、笑顔で食べ物を恵んでくれるのだ。
 特に、チベット人たちには旅人に親切にする習慣があって、そのおかげで、彼らは生還する事ができたのだった。
 最後の方で、貧しいチベット人牧夫のお世話になるシーンがある。
 それは、食べ物らしい食べ物を食べてから一週間後のことだった。7人家族の牧夫の家は、小さく、家財道具も少なかった。
 身振り手振りで、会話する。
 ミルクを出してくれて、山羊肉の大きな塊をふたつふるまってくれた。一晩泊めてくれた。
 翌朝、家族全員が表に出てきて、お辞儀とともに見送ってくれた。
 この家族に対しての評価がある。
 その前にお世話になったサーカシア人の家と比較して、こう述べている。

「礼儀正しく、心のこもっている点は少しも変わらず、非の打ちどころがなかった」

 つまり、この脱出劇は、決して彼らだけの自力の、頑張りのなせる業ではなかった。
 スラヴォミール・ラウィッツの仲間の一人マルチンコヴァスが、次のように述懐している。

「あの人たちを見ていると、自分のほうが卑しい気がする。
これまで、人間としての尊厳を失った人々に対する、苦々しい記憶がわだかまっていたが、あの人たちがそれを、ほぼ一掃してくれた」(「サーカシア人一家との一夜」)

■シベリア送りになったロシア兵たちは、実は囚人兵だったという説もある

 ロシア人たち、ここではロシア兵ということになるが、抑留者への仕打ち、収容所内での仕打ちは、過酷だった。それだけに、脱出を試みた彼らは、並々ならぬ人間不信に陥っていたのである。
 ロシア兵たちが、辛く当たるのには理由があった。
 他のシベリア抑留をテーマにした本を一読すればさらにわかってくるのだが、シベリア送りは、ロシア兵たちも同じだったのだ。
 シベリア送りになったロシア兵たちは、実は囚人兵だったという説もある。
 彼らは、誰も好き好んでシベリアを任地に選んできたのではなかった。勿論、シベリア行きを志願したケースもあったようだが、それはあくまでも出世のための手段であった。
 ロシア兵たちも、過酷なシベリアの環境の中で病気にもなったし、そのうっ憤晴らしで収容者に辛くあたったのである。

■「俘虜がこうして死んで行くのは、直接の原因の80%までが同じ日本人のせいだよ」

 直木賞を受賞した胡桃沢耕史(くるみざわ・こうし)
『黒パン俘虜(ふりょ)記』
(文春文庫)
 もノンフィクションである。
 本書の魅力といおうか、特徴は、同じ収容者である日本人が、仲間である日本人に対する過酷な仕打ちにある。
 戦争が終わり、上官だ二等兵だという序列がモノを言わなくなったために、戦後の日本の闇市と同じで、まさしく弱肉強食の世界と化すのである。
 毎日のように日本人収容者が死んでいく。その中には、日本人から受けたリンチが元で死んでいく者も多くいる。
 そのリンチは過酷だ。
 そのことについてということで、一例として「吉村隊」の「羊毛工場(コンビナート)」での
「『暁に祈る』事件」
 について触れている。
 田中絹代の映画『暁に祈る』とは無関係。
「『暁に祈る』事件」についてである。以下、ウィキペディアから。

『「暁に祈る」事件(あかつきにいのるじけん)とは、ソ連軍によるシベリア抑留の収容所において、日本人捕虜の間で起きたとされるリンチ事件である。
 リンチの指示を行ったとされる人物が、日本への帰国後に逮捕・起訴されて有罪判決を受けたが、本人は冤罪であると主張していた。事件が起きた部隊の名称から
「吉村隊事件」
 とも呼ばれる。
 外モンゴル・ウランバートル収容所において、ソ連軍から日本人捕虜の隊長に任じられた池田重善元曹長(収容所内では「吉村久佳」の変名を名乗っていた)が、労働のノルマを果たせなかった隊員にリンチを加え、多数の隊員を死亡させていたとされる。
 この『暁に祈る』とは、そこで加えられた、裸で一晩中木に縛り付けられるリンチに対して隊員らによって付けられた名で、縛り付けられて瀕死状態の隊員が明け方になるころ首がうなだれ、
「暁に祈る」
 ように見えたことによるものとされる。(戦時歌謡「暁に祈る」の歌詞にある「飲まず食わずのまま夜明けを待つ」といった部分との関連については不明確である)。』

 ちなみにイルクーツクの1月の平均気温は、マイナス20度である。

「ノルムのできない兵隊が、夜通し素っ裸で零下何十度の戸外の木に縄でつながれる」
(『黒パン俘虜記』「2章 白い行進」)

 ので、結果、全身青紫色に腫れた凍傷になってしまうのだという。
 ノルムとは、ノルマのこと。
 吉村隊では、他所の収容所以上のノルマ、それは冬用の靴づくりだが、を課して、その余分な労働から上がる利益を懐に入れていたという。

「俘虜がこうして死んで行くのは、直接の原因の80%までが同じ日本人のせいだよ」(同上)

 の言葉は、私の胸に重く響いた。


 私の今は亡き父が、生前、シベリア抑留時代の事をほとんど語らなかったのは、日本人同士の上記のようなリンチがあったからなのかも知れない、そう思えて仕方が無かった。
 参考までに、『脱出記―シベリアからインドまで歩いた男たち』は文庫で出ている。 出版社は、ヴィレッジブックスである。


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