■「山鹿流という皇室尊崇を説いた学問を学んだ内匠頭と、幕府将軍家こそ大事とする吉良上野介との思想の対立がある」

 15日(水)である。
 数日前、と言っても、5~6日前になるが、妻が冷蔵庫を掃除していた。大掃除の一環かと思ったら、さにあらずで、妻と一緒になって16年余、こういうことはなかったのだが、
「冷蔵庫の中がスカスカになったので、掃除しやすいので・・・」
 とのことであった(苦笑)。
 冷蔵庫内をよーく見てみたら、本当に空気の方が多かった(笑)。

「忠臣蔵」のシーズン(?)にも拘らず(笑)、と言いたいところだが、某メールで、忠臣蔵に関するコメントを頂いた。
 某メ-ルで書き下ろしたものではなく、他所のブログにある「赤穂浪士と山鹿流」という記事を転載したものであったが、これが、私に言わせて頂くなら、なんとも旧態然としたひどい内容のものだった(苦笑)。
「赤穂浪士における吉良上野介(きらこうずけのすけ)と主(あるじ)浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の確執」
 の背景には、
「山鹿流という皇室尊崇を説いた学問を学んだ内匠頭と、幕府将軍家こそ大事とする吉良上野介との思想の対立がある」
 というのである。
 山鹿流の尊王思想の影響下にあった赤穂藩と、佐幕派の吉良上野介の思想的対立、という構図は、決してまるで間違いというわけではないのだが、
「この討入の日、内蔵助は、〈山鹿流陣太鼓〉を叩きます」
 と書かれてあって、こうなると、流石に私も黙っては居られなかった。
 返信メールで、その辺りのことを述べさせて戴いた。
 私が、かれこれ10数年前になるが、『陽明学と忠臣蔵』(徳間書店)執筆時に、色々と調べさせて頂いた時に、討ち入りの時に山鹿流陣太鼓を叩いたという記録はまるで無かったし、著名な研究者もその事実は確認できていなかったのである。
 さらに言わせて頂くなら、全面的には信用するには足りない「ウィキペディア」でさえも、
「山鹿流といえば、歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りを指揮する大星由良助が合図に叩いた『山鹿流陣太鼓』が有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作
 と記しているほどなのだ(笑)。
 ちなみに、赤穂浪士たちは、火消し装束で、深夜、午前2時か3時頃に吉良邸を目指したのであり、午前4時頃には吉良邸前に集まったのだ。
 そして、合図の鐘を打って裏門組に知らせて、裏門組は大きな木槌をふるって裏門を打ち破り、邸内では、
「口々に火事だ火事だとおめきたて、数百人も押し入ったような騒ぎに見せかけ」(野口武彦『忠臣蔵』ちくま学芸文庫)
 たというのだから、勉強不足としか言いようがない。

 もうひとつ、これも述べておかねばならない。
 山鹿流の尊王思想が、赤穂浪士の討ち入りに大きな影響を与えた、ということは、もちろん否定できないが、これはかつて拙著『陽明学と忠臣蔵』で述べさせて頂いたことなのだが、陽明学や禅の影響も大きかったのである。
 ここで詳しく説くことはできないが、禅宗はもちろん、堀部安兵衛(ほりべ・やすびょうえ)の親友で、赤穂浪士の討ち入りを積極的にバックアップした陽明学者・細井広沢(ほそい・こうたく)も、まぎれもない尊皇思想の持ち主なのであった。
 この尊王思想と、攘夷(外国人を打ち払え)思想とが結びついて、幕末の尊王攘夷の志士達の登場と成るのである。
 攘夷は、何処の民族にもある感情論であって、思想と言えるほどのものではないが(笑)。
 この続きは、次回に。
 次回は、忘年会シーズンなので、大石内蔵助の遺品の盃にちなんだ、為になるいい話である(笑)。


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