■市川海老蔵を殴って大怪我を負わせたという男・伊藤リオンが逮捕された
 
 11日(金)である。
 年末を迎えて、つくづく思うことがある。
 先月から、執筆の仕事のために、電車に乗って外出するのは極力控えているのだが、それでもどうしてもということで出かけることがある。
 だというのに、何故だかその都度、電車が遅れているのだ。その理由は、人身事故である。
 めったに乗らなくなったのにもかかわらず、その都度人身事故のために電車が遅延するということは、ほぼ毎日のように何処かで人身事故が起きているということであろう。
 そのほとんどは、事故と言うより、覚悟の自殺なのである(悲)。
 この場を借りて、御冥福をお祈りさせて頂く。
 
 さて、ウィキリークスのアサンジ氏が逮捕されたと思ったら、市川海老蔵を殴って大怪我を負わせたという男・伊藤リオンが逮捕された。
 この伊藤容疑者のことを知る某ジャーナリストの話では、この男は、やくざではないが、オートバイの無い暴走族、言い換えれば
「愚連隊」
 だという。

 以下、市川海老蔵の暴行事件に関しての最新ニュースである。但し、抜粋。

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海老蔵さん暴行:傷害容疑で26歳男逮捕 警視庁
毎日新聞 2010年12月10日 21時10分

 歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(33)=本名・堀越孝俊=が顔などを殴られ重傷を負った事件で警視庁捜査1課は10日、住所・職業不詳、伊藤リオン容疑者(26)を傷害容疑で逮捕した。
 捜査1課は事件に至るトラブルの経緯を詳しく調べる。
 伊藤容疑者は
「殴ってしまったことは間違いない。細かいことは後で気持ちを整理して話す」
 と話し、容疑を認めているという。

 逮捕容疑は11月25日未明、東京都港区西麻布2のビルで、市川さんの頭や顔などを殴ったりけったりし、左頬を骨折させ、前歯が欠けるなど全治6週間の重傷を負わせたとしている。

 事件現場のビルに出入りしていた人などの証言から伊藤容疑者らが居合わせたことが浮上。関係者からの事情聴取で、伊藤容疑者が関与した疑いが強まり、捜査1課は29日に逮捕状を取っていた。

 関係者によると、伊藤容疑者は両親が外国人と日本人で、暴走族関係者とみられる。少年時代にはサッカー・Jリーグのユースチーム
「ヴェルディユース」
 に所属してサッカー選手を目指していたという。
 西麻布周辺の飲食店などで知り合った複数の芸能人と交友関係があったらしい
。【山本太一、内橋寿明、小泉大士】

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■「歌舞伎役者市川団十郎が成田山に七日こもってから芸道が上がったといわれるのは、参籠中、〈身をせめ〉たため心が抜け上がって一挙に芸道のさとりを得たからだ」 

 これは、数日前に、ワイド・ショーで市川海老蔵の暴行事件のニュースを見ている時のことである。
 偶々、仕事で関民子『只野真葛』(吉川弘文館)を読んでいるところなのだが、この本を手にしながらテレビを見ていて、ちょうど本書中に市川団十郎の話が出てきたのには、ちょっと驚いた(笑。)
 それはこんな記事である。

「あや子は、〈さとり〉とは、妖怪〈ろくろ首〉の、長くて自由に伸縮する首のように人の心が抜け出て固まることであり、そのことによって、物事を不動の絶対的なものとする〈常人〉の〈横に見る〉見方から解放され、〈上よりのぞむ〉、すなわち俯瞰する視点を獲得し、〈物事の行く末がさだかに知られ、一度に物のがてんがゆく〉(『独考』)ことである、と説明している。
 そして、その例として歌舞伎役者市川団十郎を挙げる。彼が成田山に七日こもってから芸道が上がったといわれるのは、参籠中、〈身をせめ〉たため心が抜け上がって一挙に芸道のさとりを得たからだというのである」(「『独考』への助走」)

 文冒頭に「あや子」とあるのは、只野真葛(ただの・まくず)のことである。
 また、文中の市川団十郎は、初代の
「江戸の氏神様」 
 と呼ばれた団十郎(1660~1704)のことである。
 なんと、初代は、舞台で刺殺されたという。

■「明和9(1772)年10歳で大火に遭い、苦しむ貧民に心を寄せ、のちのちまで続く経世済民の志を抱く」

 と、ここで只野真葛について触れておきたい。
 江戸後期に、江戸生まれで、凄いインテリ女性がいたものである。今日の今日まで知らなかった(苦笑)。
 以下は、『朝日日本歴史人物事典』からである。一部、修整させて頂いた。

【只野真葛】 
 宝暦13 (1763)~ 文政8.6.26 (1825.8.10)
 江戸中期、仙台藩医で『赤蝦夷風説考』の著者・工藤平助の娘。名は綾子。江戸生まれ。
 明和9(1772)年10歳で大火に遭い、苦しむ貧民に心を寄せ、のちのちまで続く経世済民の志を抱く。
 荷田蒼生子に古典を学び、村田春海に和文の才を認められ、また滝本流の書もよくした。
 仙台藩に奥勤めののち、家へ帰り母なきあとの家政をみる。
 36歳で、落ちぶれた工藤家復興を期して仙台藩士、1200石の只野伊賀行義の後妻となり仙台へ下る。
 江戸勤めの多い夫の留守を守りながら思索にふけり、55歳のとき、胸の想いを全3巻にまとめ『独考(ひとりかんがえ)』と題して江戸の滝沢馬琴に送り、批評と出版を依頼する。
 馬琴は禁忌にふれる部分もあると出版に反対し、自ら『独考論』を著し真葛の論に反撃した。
 また、真葛の事跡がある程度明らかとなっているのは、馬琴が『兎園小説』に書き留めたゆえである。
 真葛は体系的な学問をしたわけではないが、国学・儒学・蘭学などのうえに独自の思想を築いていった。
『独考』は偏りもあるが、江戸期の女性の手になる社会批判書であり、女性解放を叫ぶ書として評価できよう。
 <著作>『磯づたひ』『むかしばなし』<参考文献>中山栄子『只野真葛』、関民子『江戸後期の女性たち』(柴桂子)

 本書、関民子『只野真葛』は、まだ読み進めている最中だが、久々に面白いと感じ入って、手放せないでいる本である(笑)。
 ただ、只野真葛は、
「女性解放を叫んだ」
 という評価になっているが、私にはそう思えないのだ

 どうしても、江戸時代は封建時代で、かつ男尊女卑の社会だった、という評価になってしまうようだ。
 この件に関しては、読了後にでも触れさせて頂くつもりである。

 

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