■好きか嫌いかよりも、自分にとって、善いか悪いかを優先させるようになったということである。それが、大人になるということであろう。

 4日(土)である。
 昨晩は、明け方の5時過ぎに床に就いたのだが、朝方8時頃、妻と娘の口論で目が覚め、仕方がなく二度寝を試みたのだが、なんと
「郵便です」
 の声に、目が覚めた。
 11時であった。
 もう一度床に就こうと思ったのだが、もう眠れない。
 仕事に取り掛かった。
 いつものように、フルーツ・ジュースをのんで、30分後に、コーヒーとインスタントのうどん、といってもアルミの器に生うどんが入ったもの、を口にした。
 うどんは、一つだけ冷蔵庫にあったのだが、賞味期限が切れていたので、食べてしまうことにしたのだ。
 もちろん、野菜不足にならないよう、ちゃんと長ネギを刻んで入れた。
 それにしても、子供のころは、長ネギ、玉ねぎ、人参、ピーマン、大根などは、出来れば食べたくなかった食べ物なのだが、大人になってからは何故だか、健康の大切さを考えるようになったせいか、まめにとるようになっている(笑)。
 好きか嫌いかよりも、自分にとって、善いか悪いかを優先させるようになったということである。それが、大人になるということであろう。
 ただし、好き嫌いという感情を理性や知性よりも劣ると言っているのでは決してない。そのことは、拙著『真説「陽明学」入門』に敢えて詳説させて頂いている。
 感情(直観)も理性(知性)同様、私たちにとって、とても大事な認識のための道具なのである。

■森田節斎は、特に、谷三山や春日潜庵とは親しくしていた

 
この数日間は、安藤英男・監修、野木將典・著『校注、愛静館筆語』(近代文藝社)を熟読中である。
 以前にも、何度か手にしてきたのだが、今回は、幕末の志士と陽明学がテーマなので、あらためて読み直してみることにしたのである。
 本書に出会ったのは、かれこれ10数年前のことになる。
 広尾の中央図書館で見つけて、コピーをしてもらったのだが、数年前にネットの「日本の古本屋」で目にして、入手しておいたのである。
 売れることを期待して本にしたものではないことは一目瞭然である。商業ベースには乗らない本である。
 だが、
「よくぞ刊行してくださった」
 とお礼を言いたいほど内容のある本なのだ。

 以前も、本ブログで紹介させて頂いたかもしれないのだが、重複を承知で、敢えて触れさせて頂く。
 弘化4(1847)年4月、大和高市郡八木(奈良県橿原市八木町)の儒者・谷三山(たに・さんざん)と、当時、京都で活躍していた儒者・森田節斎(もりた・せっさい)とが、高取城下(奈良県高市郡高取町)の築山愛静(あいせい)の屋敷で、5日5夜にわたって筆談をしたその記録なのである。
 筆談したのは、谷三山が幼少期の病気がもとで全聾(耳が聞こえない)となっていたからである。
 その内容たるや、まるで文人どうしの高尚な会話なのである。また、当時の日本のトップエリートたちの人物評が語られていて、大変興味深いのだ。
 当時、谷三山は、46歳で、日本でトップクラスの博覧強記(博学)の儒者として知られていた。
 また、森田節斎は、当時37歳で、三山と同じ大和(奈良県)の出で、師友を求めて四方に遊歴し、儒者・猪飼敬所(いがい・けいしょ)に師事、文章を頼山陽に学び、江戸の昌平黌で古賀侗庵に師事、伊予(愛媛県)西條の近藤篤山にも師事するという勉学振りで、春日潜庵、梅田雲浜、池田草庵、塩谷宕陰らと交わり、その交遊も豊かだった。節斎は、特に、谷三山や春日潜庵とは親しくしていた。
  
■本書を一読してまず驚いたのは、森田節斎は、世評とはまるで違って、陽明学を非常に好んでいたという事実である

 弘化4(1847)年といえば、水野忠邦の「天保の改革」の頃で、大塩の乱は、10年前の天保8(1837)年のことであった。
 ペリーの黒船来航は、それから6年後の嘉永6(1853)年のことで、尊王攘夷運動が起きる、政治の時代の前夜といっていい頃であった。
 森田節斎は、その後、志士の一人として政治の世界にその身を投げうっていくのだが、このころはまだ一文人であった。
 今から10数年前に、本書を一読してまず驚いたのは、森田節斎は、世評とはまるで違って、陽明学を非常に好んでいたという事実である。
 人名事典では、いずれも「朱子学者」となっているのだが、実弟の森田月瀬(げつらい)が陽明学者であったことを思えば、なるほどと思えてくる。
 冒頭分にこうある。以下は、拙著『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』(三五館)でも紹介させて頂いたと記憶している。

「節斎:僕、体中の佳(よ)からざる毎(ごと)に、陸王(りくおう)の語類を読み、胸中頓(とみ)に快なるを覚ゆ。賢兄に在りては即ち如何」
 節斎は、
「あまり調子が良くないときに、陸象山や王陽明の語録などを読むと、とても気分が良くなるのだが、三山兄貴の場合は、どうですか?」
 と質問しているのだ。
 これに対しての三山の返事は、
「僕の性は全く此(これ)と異なる。陸王の書を読めば、胸中便(すなわ)ち佳(よ)からざるを覚ゆ。・・・(略)・・・」  
 と、つまり、
「私の場合は、あなたとまるで正反対で、陸象山や王陽明の本を読むと、気分がすっきりしなくなる」
 と答えているのだ。
 谷三山は、典型的な朱子学者であった。
 以下、参考までに、人名事典にある森田節斎と谷三山の記事である。
 
【森田節斎】
 生年: 文化8 (1811)
 没年: 明治1.7.26 (1868.9.12)
 江戸後期の儒学者,志士。名は益,通称謙蔵,節斎,または節庵,愚庵と号す。大和(奈良県)五条の人。父文庵は医者。
 文政8(1825)年、京都に出て猪飼敬所に就き,さらに11年頼山陽に学ぶ。12年より昌平黌に入り,安井息軒,塩谷宕陰らと相識る。
 弘化1(1844)年、江木鰐水の『山陽先生行状』を強く論難する。
 京都に塾を開き尊攘論を唱え,吉田松陰,乾十郎ら尊攘志士を輩出し,また頼三樹三郎,梅田雲浜,宮部鼎造らと親しく交わる。
 文久1(1861)年倉敷に移る。
門人原田亀太郎が天誅組に参加し,自らは中川宮朝彦親王へ上申するなどの運動で幕府に目をつけられたため,紀伊国に逃れ髪をおろし愚庵と号し,那賀郡花見村に没す。
 <著作>『節斎遺稿』<参考文献>片山孟郷『節斎森田先生行状』。(沼田哲)(『朝日日本歴史人物事典』)

【谷三山】
 生年: 享和2 (1802)
 没年: 慶応3.12.11 (1868.1.5)
 江戸後期の儒学者。名は操,字は子正また存誠,通称市三,新助,のち昌平。三山は号。大和国(奈良県)高市郡八木で商業を営む父重之と母ちやの3男。
 家は豊かであったが幼少より多病で,15,6歳ごろ聴力を失う。
 正史経伝の勉学に励み,文政12(1829)年京に出て猪飼敬所に就いた。
 天保6(1835)年ごろ家塾興譲館をおこし門人多数におよんだ。
 15年1月、高取藩(奈良県)藩主植村家教により儒臣に抜擢され士籍に列した。その学問は経世に志あり,また藩政や尊王攘夷,あるいは山陵修復についてなど,たびたび上書した。
 頼山陽,森田節斎などと親しかった。
 晩年に失明した。
 <著作>奈良県高市郡教育会編『三山谷先生遺稿』<参考文献>大伴茂『聾儒谷三山』,大月明『谷三山の尊王攘夷思想について』。(沼田哲)(同上)


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