■尼さんのエッセイだから、どちらかといえば女性向けだと思うが、陽明学を学ぶ私にとっても、実に興味深く拝読させて頂いているところだ 

 以下、11月3日の続きということで、川村妙慶
『こんな時親鸞さんなら、こう答える』(教育評論社)
 の「19 誰かと比較するから本当の自分が見つからないのです」―3で、これが最終回である。
『こんな時親鸞さんなら、こう答える』は、サブタイトルが
「妙慶尼さんの元気エッセイ 『思い込み』を捨てる48のヒント」
 とあって、読みやすさも手伝って、生活に直結した話だけにとても参考になること請け合いである。
 特に、尼さんのエッセイだから、どちらかといえば女性向けだと思うが、陽明学を学ぶ私にとっても、実に興味深く拝読させて頂いているところだ。
 初めての方は、私のブログの11月1日と3日の記事を一読されてから、以下の記事をお読み頂きたい。

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 そしたら父は
「あのな、悟ったというのは、差(さ)取ったという意味や!
 お前は、あの家の子どもは幸せで、私の家は不幸で、これをしたら勝ち、このグループは負けと自分で差をつけているだけや。だから自分の思いが勝手に自分を暗くしているだけなんや。
 親鸞というお坊さんはな、苦労のどん底の中に、阿弥陀様の光を見たのや。
 自分の中で一線を引いてしまう境界線という差を取ってしまえといってくれているのや。自分の『思い』の中にだけ閉じこもらんと、そのままの命を生きさせて頂いたらええのや。
 わしは学歴もない。でも、その中でも生きることのできる世界を親鸞さんは教えてくれた。親鸞さんのおかげでわしはこんなに明るくなれたんや。頭ばっかりよくならないで、お前がここにいることを喜べ!」。
 それから三年後、父はお浄土に還りました。
 
 
念仏には無義(むぎ)をもって義とす。
 不可称不可説不可思議(ふかしょうふかせつふかしぎ)
 のゆえにとおおせそうらいき。
     「歎異抄十章」

 私は親鸞さんのこの言葉にふれた時、父親の言葉がよみがえりました。父は『歎異抄』のこのことを私に伝えたかったのでしょう。
 私たちが不安になったり悩んだりする時は、自分の「思い」が中心になり、それを立てようとしているのです。
「あの人には負けたくない」
「認められたい」
 これらはすべて自分が中心となった思いです。
 そして、早々自分の思いどおりにならないのが現実です。
 そこを見ようとしないで、自分の負けを認めたくないために、環境が悪い、恵まれていないと、外ばかりを責め、腹を立てていたのです。
 そうではなく、
「不可称、不可説、不可思議」
 つまり、自分の思惑になることは一つもない、むしろそこから力を抜き、解放された時に、
「すべては不可でありました。一つひとつのできごと、出会いから本当の私になれました」
 と、親鸞さんは気がつかせてくださっているのです。
 自分で思い描くことは悪いことではありません。
 しかし、一〇〇%かなうと思うから、かなえられなかった時の落ち込みが大きくなるのです。
 思うようにしたい、つかみたいと近寄るほど、しがみついた生き方しかできません。そうならないためには、自分の作り上げた理想像から離れて見ることです。
 たとえば、大きな物体をカメラに収める時、近距離ではフレームに入りきれません。その時は何歩か離れて撮影します。それと同じように、視点を変えて一歩離れる、間をおく、―――、そうすれば、あなたの器にちょうど入りますよ。

 終り
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「なんとなく、わかった、かな」
 と思われた方は、それで充分(笑)。
 親鸞の言葉の意味など完璧に分かる必要などないのだから。


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