個々の國民の幸せを祈る存在・・・シラスとウシハク(2) | シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】

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【本記事の主張】
天皇は“國民ひとりひとり”の幸せを、あたかもみづからの身内に向けるがごとく、御祈りになる存在である。貧富貴賤によって差別したりはしない。




  ふりかへってみると、きのふ10月10日は、體育の日なんですね。言ふまでもなく、東京オリンピックの開會式が行はれた日であります。7年後の五輪は眞夏におこなふのださうですが、正氣の沙汰とはおもはれません。ヒートアイランドのただなかに選手と觀衆を放りこんで、熱中症患者を大量發生させようといふ魂膽なのでせうか。祭うんぬんといふ理由があるさうですが、

「祭と人命のどちらが大切なんだ?!」

と言ひたい。きのふは台風一過の晴天で暑かったので、ついそんなことを叫んでしまひます。





  天皇は金持の味方でせうか? いえ、そんなことはありません。天皇は、特定の階級だけを愛しはしないのです。“國民ひとりひとり”を、平等に分け隔てなく尊重してくださいます。


  竹田恆泰氏の『日本人の原点がわかる「国体」の授業』(PHP研究所)に興味ぶかいエピソードが載ってをります。76、77ページです。


(引用ここから)
  私は東北の被災地にボランティアで訪問したとき、近くにいた中年のご婦人に声をかけたことがあります。
「そういえばこの避難所に先週、天皇陛下がいらっしゃいましたね。」
と私が尋ね、その方が、
「そうなんです。」
と答えたのですが、そのご婦人は、その瞬間に泣き出してしまいました。
「思い出しただけで涙が止まらなくて。」
周りの人もみんな、
「そうそう。」
と言って、これまた泣きはじめる。驚いて、
「どんな様子だったんですか。」
と聞いたら、陛下のお姿を見たとたんに、全員が泣いていたそうです。


  その方は、家族もみんな亡くなってしまい、
(なぜ自分だけ生き残ってしまったのか。)
(どうやって死のうか。)
とばかり考えた夜もあったそうです。そんなとき天皇陛下のお姿を見て初めて生きる望みが湧いてきたというのです。お愛想や他人事ではなく、
(他人なのに自分のことを本当に心配している人がいる。)
ことが分かり、
(だったらもう少し頑張れる。)
と思ったそうです。



  これは途轍もなくすごい話で、人を本当に救うのは理屈ではない、ということです。その方に、
「では普段から陛下を尊敬なさっていたんですか。」
と聞いたら、
「そうじゃないのよ。どちらかというと『天皇なんかいなくてもいい』と思っていました。でも初めて分かったわ。
と。


  何がわかったかというと、天皇が国民にとって父母のような存在であるということです。天皇が存在することが、どれほどありがたいか、この方は肌身で知ったのでしょう。
(引用ここまで)


  みなさんはこのエピソードを御讀みになり、どんな感想をおもちになりましたか? 驚きなさった方もをられるでせう。
わたくしは、驚きませんでした。むしろ逆に

「うんうん。さうだらうな。」

と、“想定の範圍内”といふ印象をもちました。なぜならば、天皇はさういふものであるといふことを、あらかじめ知ってゐたからです。(とは言へ、もしわたくしが直接に天皇の拜謁をたまはっても、まともに御顏を拜見できないとおもひます。あまりにもおそれ多いからです。ひとりでに身體が動いて、土下座までしてしまふかもしれません。)


  天皇の等身大の御姿が、今のエピソードに寫し出されてをります。誇張も虚僞もありません。天皇は弱者の味方をしてくださるのです。





  ただ、「天皇は貧乏人の味方」といふと、逆に金持を敵視するかのやうに誤解する人もをりますが、それも考へ違ひです。天皇は、金持も貧乏人も、等しく尊重なさります。貧乏人だからといふ理由で差別しないのと同じく、金持だからといふ理由でも差別しないのです。もちろん、その金持が貧乏人を虐待するならば、天皇は御怒りになるでせう。ひどい損害を他にあたへないかぎりにおいて、金持も天皇の庇護をうけることができるのです。

日本國民は、天皇の赤子(せきし)である。

  それは、戰前は當り前に言はれてゐた命題であります。戰後になって言はれなくなりましたが、だからといってその實體が失はれたわけではありません。それどころか實體は相變らず、日本國民は“天皇の赤子”なのです。換言すれば、天皇は“民の父母”であるといふことです。


  竹田氏の前掲書、さきほどの引用の後に、こんな表現がございます。79、80ページです。

「(天皇皇后両陛下が)あたかも『わが事』に際し『わが身内』を見舞っている感じ、両親や子をお見舞いになるような感じでした。
「天皇が民の父母であるというこの一点は、建国から貫徹している真実です。天皇は『国民一人ひとり』の幸せをお祈りになります。それは『国民全体の幸せ』ではありません。国民一人ひとりの幸せ」を、命を懸けて祈る。これが天皇のご存在なのです。

  天皇にとって國民は、ひとりひとりが“身内”であります。家族・親戚なのです。身内にたいして、貧富貴賤による差別をするでせうか? まづしませんね。金持であらうが貧乏であらうが、自分の子(たち)であるといふ事實は變りません。親ならば平等に子らを愛するはずです。


  すでにおわかりのことと存じます。天皇の前においては、貧富貴賤の區別なんぞ無效なのです。諸外國の君主が金持の味方であったといふ事實と、よくよく見比べてください。

罪あらばわれを罪せよ天つ神 民は我身の生みし子なれば」(明治天皇)

  明治天皇にかぎらず、天皇ならばみなさま、そのやうなおもひを胸に、祈りを捧げてきなさったのです。
(つづく)





【本記事の主張】
天皇は“國民ひとりひとり”の幸せを、あたかもみづからの身内に向けるがごとく、御祈りになる存在である。貧富貴賤によって差別したりはしない。



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