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人格的に缺陷があるとしてもなほ、皇室は國民の模範たりうるのか、といふ疑問について、けふも考へてみます。
皇族方にしても人間なのですから、缺點のひとつやふたつはあって當然です。それを理由にして模範たりえないのだとすると、いったいわれら國民は誰を模範とすればよいのでせう。それこそ、神樣を模範とする以外にはありません。しかし神は神であって、人間ではない。日本の八百萬の神々といへども、われらとは異質の存在です。次元が違ひすぎるため、すぐに模範化を諦めてしまひます。あとは、墮落の道しかのこされてをりません。
キリスト教の問題點は、そんなところにもあるのではないかと、近頃おもひます。全知全能の神といふ途方もない存在をさだめ、「右の頬を打たれたら、左の頬をむけなさい。」などといふ、およそ凡人には實踐不可能な教へをイエス=キリストは示してしまひました。つまり、一般人にはハードルが高すぎるのです。
それゆゑほとんどのキリスト教徒たちは、表向きは實踐の姿勢をみせつつ、内心ではそれを諦めてしまふのではないでせうか。近代において、キリスト教國がいかにひどい仕打を他國にしてきたのかを考へるとき、そのやうな問題も無視しえないとおもはれます。(もちろん、異教徒を人間扱ひしないといふ傾向こそ、主な原因でありませうが。)
また、支那の人民がモラルをほとんどもちあはせてゐないのも、結局のところ、見習ふべき模範がないからではありませんか。謀反のうへに謀反をかさね、革命のうへに革命をかさねてきたため、支那人民にとって皇帝とは模範でも何でもありません。たまたまうまいことやって前の皇帝を倒し、まんまと位についただけの存在なのです。模範となるべき人間が不在であるといふことは、悲劇的なことであります。
わが國の皇族方はもちろん人間でありますから、至らない點は確かにございます。が、それでもわれら國民に比べれば、はるかに優れた人間性を備へておいでなのです。日本國民は、そのやうな方々を模範として仰ぎみることができる。それは、とても幸せなことではありませんか。さうおもへば、皇太子殿下御夫妻をみる目も、すこしは優しくなるとおもひます。
それでもなほ疑惑がとけない人は、このやうに考へるとよいかもしれません。皇族方、たとへば皇太子殿下・雅子妃殿下御夫妻は、苦しんでをられる。人格的向上をはからうとなさっても、何らかの障碍があってうまく御出來にならない。われわれ國民ならとっくに匙を投げてしまふほど辛いことであっても、御夫妻はあきらめずに努力してをられるはずです。その努力をもっとみてさしあげませう。
そもそも、天皇・皇室に要求される資質のレベルが、どれだけ高くきびしいものであるか、われわれ國民は考へたことがあるのでせうか? 《和》の精神を象徴・體現なさるのが皇室であると、まへに述べましたけれども、それがどれほど人間にとって難しいことか、批判的な國民は實感しようとしてみたのでせうか?
ちかごろの日本國民は、天皇崇拜の①(前囘・前々囘を參照のこと)を忘れかけ、③ばかりに執着してゐるとわたくしにはおもはれます。それは西洋化の惡影響が原因かもしれません。が、さうであっても、無意識的に①のことも忘れないのです。日本國民ならば誰でもさうであります。言ってみればそれは、日本民族の遺傳子に刻みつけられたデータなのです。
そして、《和》の精神を象徴するものが皇室であるといふおもひが、國民の心のどこかにあるからこそ、われわれは天皇や皇室にたいし、とても過剩な御期待をしてしまふのです。雅子妃殿下のやうな、和の精神どころか《不和》を發生させてしまふかたにたいして、よりきびしい目をむけてしまふのです。
われら日本國民が日本皇室をみる目と、たとへばイギリス人がイギリス王室をみる目とは、明らかに異なります。こちらの目の方が、はるかにきびしい。要求がおほきすぎるのです。なぜなら和の精神といふ、およそ人間が背負ふには重すぎる使命を、われらは天皇・皇室の内にみてしまふからであります。
(つづく)
最後まで讀んでくださり、ほんたうにありがたうございます。「日本國民が皇室をどうみるか、なぜそのやうにみるのかが自覺できた。」と御感じになったかたは、ぜひ『人氣ブログランキング』に清き一票を、よろしく御頼み申上げます。

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