皇室はそもそも國民の模範なのか? | シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】

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  皇室はつねに、われわれ國民の模範たるべき存在であったと、きのふ御話いたしました。その點につき、疑問を感じた人がゐるかもしれません。いかなる疑問かと言ふと、

歴史的にみて、必ずしも模範的でなかった天皇もをられる。今の世にしても、皇太子殿下の御振舞は、あまり御襃め申上げられるものではない。そのやうな事實を前にしても、なほ皇室は國民の模範であると言へるのか?

といった疑問です。


  その疑問は、一目(ひとめ)にはもっともです。が、木を見て森を見ずの考へであると言はざるをえません。






  たしかに事實としては、さほど聰明であらせられない天皇もおありになったことでせう。そのためもあってか、權力鬪爭がおこったり戰亂の世に突入したりしたこともありませう。


  しかし、さういふ事實があったとしてもなほ、天皇を尊ぶ國民精神はなくならず、皇統は連綿としてつづいてきました。普通なら、凡庸な天皇から位を奪はんとする者がでて、實際に皇位を奪ってしまふ事件がおきても、まったくをかしくありません。が、さうはならなかった。


  つまり、一時的・一代的・個人的事情によっては左右しえないほどの、強靱な原理が皇統をつらぬいてきたと考へられるのです。さう考へるしか、ほかに術(すべ)はありますまい。それは觀念論ではなく、儼然たる事實から導きだした合理的思考です。






  いにしへの日本國民たちは、天皇といふ存在を個人レベルでのみ捉へてゐたわけではありません。個々の天皇を流れる原理に、意識的にせよ無意識的にせよ氣がついてゐたのです。


  天皇崇拜とは、個人崇拜ではありません。それだけではなく、歴代天皇が受け繼いでこられた原理(その詳細については後日)を崇拜することでもあるのです。その點に氣がつかない尊皇思想は、もはや日本思想ではありえず、西洋思想・支那思想になりはててしまひます。






  そもそも、すべての天皇に完璧な資質をもとめるのは、天皇が人間であるといふ事實をなほざりにするものです。天皇とて人間であらせられるわけですから、聰明な御方もをられれば、さほど聰明でない御方もいらっしゃいます。個人差があるに決まってゐるではありませんか。


  そして、賢き天皇はもちろんのこと、さほど聰明でない天皇であっても例外なく、皇祖から受け繼ぎたまふ神聖な使命・重要な責務を御心に祕めてをられるのです。そして、もって生まれた御資質のかぎりをつくして、その使命に勵まれます。手拔きは一切ありません。ただ、個々の天皇の御資質によっては、至らない點も出てしまひませう。それは人間であるかぎり、仕方のないことです。






「戰前まで天皇は現人神として崇められた。が、昭和天皇の「人間宣言」以降、天皇は人間になったのだ。」

と、よく言はれます。その言説じたいが誤解にもとづくものであることはさておき、個々の天皇に完璧をもとめるのは、人間である天皇を神扱ひするものではないでせうか。しかも、日本的な八百萬の神ですらなく、西洋流の神(God)であるかのやうに見てをります。知らず知らず、外國思想のフィルターを通して日本をみてゐることを自覺すべきです。






  Godのやうに完全無缺な人間なぞ、どこにもをりません。が、だからこそ、天皇のすばらしさ・おそろしさが逆にわかるのです。われわれとおなじ人間であるにもかかはらず、そこまで立派に御振舞になれるものなのか・・・・・・。しかも、少なからぬ天皇がさうであられた・・・・・・。それは、實におそろしいことではありませんか。わたくしはさう感じます。天皇はおそろしい存在なのです。
(つづく)




  最後まで讀んでくださり、ほんたうにありがたうございます。「天皇を個人崇拜のレベルでのみ、捉へてはならない。」といふことが御分りになったかたは、ぜひ『人氣ブログランキング』に清き一票を、よろしく御頼み申上げます。


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