言葉を大切にすべき理由(6) | シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】

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 けふは、きのふにひきつづき、この内容を檢討いたします。

【内容目次】

(1)言葉は、大切に、正しくつかはなければならない。なぜなら、人間は言葉によって《規範意識》をやしなふため、言葉を粗末にあつかふと、規範意識の涵養ができなくなってしまふからだ。(第三の理由)(*つづき)





 なほ、本ブログにおいては、正字正假名遣で表記してゐます。なぜ、わざわざ讀みづらくて難しい表記をするのか? その理由を御知りになりたいかたは、わがウェブサイト(クリックすると、ジャンプします。)に御越しください。わけを、おしらせいたします。


 或いは、この本を御讀みください。さすれば、この問題について、關心をおもちになり、知識・教養をふかめることができます。文庫ながら、じつにすばらしい本です。
 とくに、本記事は《言葉の問題》がテーマですから、つづけてこの本を御讀みになれば、さらに御理解がふかまることでせう。


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(1)言葉は、大切に、正しくつかはなければならない。なぜなら、人間は言葉によって《規範意識》をやしなふため、言葉を粗末にあつかふと、規範意識の涵養ができなくなってしまふからだ。(第三の理由)(*つづき)





 きのふから、言葉と規範とのかかはりについて、御話してをります。もちろん、けふもその豫定ではございます。が、その問題にはひるまへに、まづ、とても基本的なことがらを、再確認しておきませう。





《ウソつきは、泥棒のはじまり。》

といふことわざがありますね。


 ウソをつくのは、わるいことです。ウソつきもはじめは、それなりの罪惡感をともなったでせう。が、何度もウソをつくうちに、罪惡感がちいさくなってゆきます。しまひには、それがかぎりなくゼロになる。惡事もエスカレートしてゆき、はては泥棒になって、他人樣の財物をなにくはぬ顏で盜んでしまふのです。それが、このことわざの眞意であります。


 ただし、嚴密に言へば、それは正しくありませんね。ウソをつく人すべてが、泥棒になるわけではありませんから。しかし、或る面においては正しい。みなさんも、うなづくところ大でありませう。だからこそ、《ウソつきは、泥棒のはじまり。》といふ表現が、ことわざにまでなりえたのです。多くの人が、「この表現には眞實がふくまれてゐる。」とおもってきたからこそ、いまに傳へられたのです。





 《ウソをつく・物を盜む・人を傷つける》といった行爲は、たしかに別個の行爲ではございます。客觀的・身體的には、まったく別のアクションです。しかし、主觀的・精神的には、つながるところがすこぶる多い。ことわざは、そのことを示唆してをります。


 さうなると、

「物を盜ませない・人を傷つけさせないためには、どうしたらよいか?」

といふ問題を考へるとき、その行爲の禁止・防止ばかりをみてはダメなのです。それは、あまりに近視眼的な、《木をみて森をみず》風の對策なのです。竊盜・傷害に《つながりうる》行爲もまた、きびしくチェックしなければなりません。さらに言へば、人の《精神構造》から、改めてゆかなくてはならないのです。





 ちかごろ、企業や學校など、團體の不祥事・惡事が、たてつづけにおこってゐます。それぞれ「再發防止」にとりくみつつあるはずなのですが、なかなか成果があがりません。


 そのわけは、いま申上げたこととも關係いたしませう。《その行爲》だけを禁止・防止しても、片手落ちなのです。小手先の對策だけとっても、根本的な病原をつきとめなければ、ふたたび事件は發生いたします。


 川の下流だけ掃除しても、上流でゴミが垂れ流されてゐては、いっかうに埒があかないことと同じです。その道だけ通行止にしても、裏道が自由通行では、ほとんど意味がありませんね。わたくしが言はんとするところ、おわかりいただけますか。





「人間の行爲には、外形的には異なるものであっても、内面的につながったものが、少からず存在する。」

 それが、わたくしの主張したい命題でございます。





 さて、言葉と規範との問題にもどりませう。

「人間は、言葉の正しい使用をつうじて、《規範一般》をしっかり守る訓練をさせられる。」

と、きのふ、申上げました。ことわざの檢討のあとで、その文章を御讀みになりますと、なにかひらめくものがございませんか?





 現代日本においては、規範の遵守が、なほざりにされがちです。家庭内・學校内・企業内、そして社會全體。それぞれのレベルにおいて、規範の力がよわまり、ルール違反をおかすひとが、あとを絶ちません。きめられた日時にゴミをださない、同級生を傷つける、金を横領する、などなど。

「どこどこにおける規範(だけ)が、ないがしろにされてゐる。」

と、特定できるわけではなく、社會全體において、規範がやぶられつつあるのです。





 わたくしが、ここで主張したいのは、これであります。

「およそ規範といふものを守らせるためには、まづもって、言葉を正しくつかふ努力をすることから、始めなければならない。」

「言葉の規範を守らせるところから、すべての規範の遵守がスタートするのである。」






「人間の行爲は、外形的には異なるものであっても、内面的につながったものが、少からず存在する。」

といふ命題を、ことわざの檢討をつうじて強調いたしました。ここでそれが活きてくるのです。





 個々の規範は、外形的にはまったく別なものであっても、

「それが《規範一般》に屬する。」

「どの規範も、《規範をまもる》といふ點は、かはらない。」


といふ、内面的な共通點があるのです。それゆゑ、

「Aといふ規範・Bといふ規範は守るけれども、Cといふ規範は守らない。」

といった區別が、ほとんどできません。なかには、器用なことにそのやうな區別ができる人も、ゐるでせう。が、少數派であります。人間は、そこまで器用にはできてゐないのです。たぶん、多くの人々は、

「Cといふ規範は守らない。Bといふ規範も守らなくてよからう。それならば、Aといふ規範もやぶってよいのではないか。」

と、考へを飛躍させることでせう。人間には《類推能力》がございますから、さういふ思考が可能なのです。意識の有無にかかはらず、思考ができあがってしまふと、じっさいの行爲までは一瀉千里です。


 つまり、《ウソつきは泥棒のはじまり》の考へ方を援用すれば、言葉の正しい使用といふ、もっとも基本的なルールがやぶられると、ほかのルールも危くなってしまふのです。

《言葉の誤用の放置は、ルール破りのはじまり。》

といふわけです。言葉づかひを正しくすることは、不正を撃退する《最前線》であって、そこがやぶられてしまふと、その他一般の規範が、次におびやかされるのであります。





 それゆゑ、或る規範をまもらせたいときは、その規範だけ守らせようとしても、效果がなかなかあがりません。その點において、さきのことわざと同じ特徴をもちます。川の掃除の例・道路の通行止の例などを、おもひだしてください。


 特定の規範をまもらせるときであっても、およそ《規範一般》をまもらせる精神をやしなはなければなりません。ゴミ出しのルールはゴミ出しのルール、學校のことは學校のこと、會社の規則は會社の規則、のごとく、わりきって考へてはいけないのです。

「このルールだけ守らせておけば、あとのことは關係ないさ。」

といふ態度は、けっして問題解決にはつながりません。じっさい、今もつながってゐないではありませんか。





「人間と言葉とは、つねに交はった状態にある。」

「言葉の正しい使用によって、《規範一般》をまもる訓練をさせられる。」

 それらの命題は、くどいほど主張してまゐりました。だからこそ、

「言葉の規範をまもるところから、すべてがスタートする。」

と、申上げたのでございます。





 言葉を正しくつかふ努力から、規範一般をまもる態度が、つちかはれてゆくのです。逆に、言葉を正しくつかふ努力をおこたってゐるうちは、規範無視・ルール無視の傾向がつづきます。


 いま、政治・經濟・社會全般にわたり、ルール違反がめじろおしです。が、言葉づかひを改善しないうちは、それらの違反が解消されることはほとんどありますまい。《根っこ》を放置してゐるからです。


 言葉を正しくつかふといふ、人間にとって根本的な規範をやぶっておいて、ほかの規範やぶりを何とかしようとおもふのは、ひどく蟲のよい考へでございます。さういふ横着な態度からは、なにも産みだされはしません。
(つづく)





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