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けふは、次のことがらにつき、御話申上げます。
【内容目次】
(1)生命と電氣とを天秤にかけることは、冷酷非情である。
(2)「原發をなくすと電氣が足りない。」と言ふことは、《過失犯罪》である。
(3)ものごとには《情》《理》といふ、ふたつの性格が存在し、その割合に應じて、なすべきことが決定される。
【おしらせ】
7月22日(日)つまり明後日、このアメブロ内に、もうひとつブログを開設いたします。《食べ物・運動・健康法》をテーマとするブログです。
完成したら、また告知いたしますから、そちらにも、ぜひ足を御運びください。御願ひを申上げます。
なほ、本ブログにおいては、正字正假名遣で表記してゐます。なぜ、わざわざ讀みづらくて難しい表記をするのか? その理由を御知りになりたいかたは、わがウェブサイト(クリックすると、ジャンプします。)に御越しください。わけを、おしらせいたします。
或いは、この本を御讀みください。さすれば、この問題について、關心をおもちになり、知識・教養をふかめることができます。文庫ながら、じつにすばらしい本です。
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(1)生命と電氣とを天秤にかけることは、冷酷非情である。
脱原發を主張する人のなかには、このやうなことを言ふかたが、たまにいらっしゃいます。
「たかが電氣のために、國民を危險にさらすのはよくない。」
ちかごろでは、音樂家の坂本龍一氏がこんな發言をして、一部の人々から批判されました。7月16日に代々木公園(東京)でひらかれた、「さやうなら原發10萬人集會」での發言です。
「たかが電気のために、この美しい日本や、国の未来である子供の命を危険にさらすようなことをするべきではありません。」
おっしゃりたいことは、痛いほどわかります。純粹な心から發せられた、正直な言葉であることは、疑ふべくもありません。が、おほやけの場で、みなを代表して發言するときは、そのやうなことを言ふべきではない。わたくしは、いつもさう考へます。
「電氣か、生命か。」をせまる二擇は、人によっては《脅迫》にもなりうるのです。もちろん、われわれのやうな、たいして電氣を使はない《貧乏人》にとっては、けっして脅迫にはなりません。寸分の迷ひなく、生命の方をとるからです。みなさんの多くも、躊躇せず生命の方をえらぶことでせう。しかし、電氣を大量につかふ者にとっては、どうか?
電氣を大量につかふ者とは、《電氣を大量につかふことによって、事業をおこなふ者》といふ存在です。すなはち、産業界のことであります。
産業界にとって、電氣は、生命のつぎに大切なものです。
「生命あっての物種(ものだね)」
といふ慣用句のとほり、生命なくして事業經營はできません。その意味では、《1位=生命、2位=電氣》であり、われわれと同じ考へになります。しかし、だからと言って、ここで安心してはならないのです。
何らかの事業をしてをられる人は、その事業に《生き甲斐》を感じ、《誇り》をもってをります。もちろん、イヤイヤやってゐる人もをられます。それは事實でせう。が、多くの事業者は、その事業の發展を心から願っていらっしゃるはずです。生命をかけて事業經營をなさるかたも、確實にをられます。とくに、世界的な評價のたかい事業者は、その傾向が顯著でございませう。みづからの事業に誇りをもち、毎日、一生懸命努力してこられました。だからこそ、現在の高評價があるのです。
かれらが、生き甲斐をもって事業經營にとりくんでゐるといふことを、われわれは知らなければなりません。
なにが言ひたいのかといふと、これでございます。
「生き甲斐をもって事業經營をする者にとって、その事業が大幅に制限される、もしくは
不可能になるといふことは、死をも意味する。」
つまり、かれらにとっては、《事業をすること=生きること》であって、事業をせずして生き永らへるのは無意味なのです。事業ができなくなる(制限される)くらゐなら、死ぬ方がマシだと、考へるわけです。
たとへば、福島原發事故後に自殺をした農家さんが、いらっしゃいます。御存じのかたもをられるでせう。その方は、はやくから有機農法にとりくみ、その世界の開拓者(パイオニア)でした。もちろん、御自分の御仕事に、誇りと生き甲斐とを感じてをられました。さうであるからこそ、放射能汚染で長期間にわたり農業ができないことを悲觀して、自殺といふ選擇をなさったのでございます。
生命と等價値のものも、存在するのです。
その傾向は、なにも農業・産業界にかぎりません。みなさま御一人おひとり、御自身をふりかへってみられたうございます。すると、なにかひとつは、《生き甲斐》といふものを、もっていらっしゃるはずです。「生き甲斐がない。」といふ人もをられませうが、さういふ方は、これからわたくしの主張することが理解できないでせうから、以下の文章を御讀みにならないことを、おすすめいたします。
さて、ひとつ以上の生き甲斐をもつかたに、御質問いたします。或る他人にこのやうなことを言はれたとき、どう御感じになりますか?シミュレーションしてみてください。
「その生き甲斐を感ずる《もの》と、生命と、どちらが大切なのだ?」
「たかが、その《もの》のために、生命を犧牲にすべきではない。」
まづ、「たかが」とは何事だ、失禮な! と御感じになるでせう。そして、生き甲斐をつよく感ずるものであればあるほど、上の質問は脅しにみえるはずです。
「生命をとられたくなければ、その大切な《もの》を捨てろ。」
と言はれるがごときものですから、これは立派な《脅迫》なのです。それに、生き甲斐を感ずる《もの》をとりあげられることじたい、人によっては「死ね!」と言はれることと同じにみえるのです。
電氣をとても大切におもふ人もゐるのですから、
「たかが電氣・・・・・・。」
「生命と《電氣》と、どちらかをえらべ。」
などと、氣やすく言ってはなりません。おもひやりに缺けた發言でございます。
そして、産業界の感情を逆なですると、かれらは電力會社の側についてしまひます。さうなれば、脱原發がさらに遠のいてしまふのです。
大飯原發再稼働の眞相は、まさにそれでした。詳しくは、7月5日附の記事「すべての、脱原發派のかたへ」を御讀みください。
産業界を敵にまはしてはならないといふ意味からも、
「電氣と生命と、どちらが大切か?」
と、迫ってはなりません。
(2)「原發なくすと電氣が足りない。」と言ふことは、《過失犯罪》である。
或いは、こんな發言をなさるかたも、いらっしゃいます。
「はじめは、電氣が足りなくなるかもしれないけれど、安全をまもるために、原發はなくすべきだ。」
その發言も、おっしゃりたいことはわかります。安全は、たしかに大切です。が、「電氣が足りなくなるかもしれない」と言ってしまったのが、あやまちです。
元民主黨議員で、いまは新會派「みどりの風」の舟山康江・參議院議員(山形選擧區選出)が、2日ほど前(7月18日)の夜、テレビ番組に登場していらっしゃいました。(*生放送ではない。)
「ニュース9」(NHK)か「報道ステーション」(テレビ朝日系)か、記憶があいまいであることを、御許し下さい。
テレビ局のキャスターが舟山議員に質問をして、議員がそれに答へる、といふ形式で映像がながれてゆきました。その折、舟山議員が、こんな主旨のことをおっしゃいました。
「原發をなくすと、一時的には電氣が足りなくなるかもしれないが、それでも安全にはかへられない。」
わたくしはその發言をきいて、失禮ながら「またか。」とおもひました。
原發がなくても、充分に電氣は足ります。それは、さまざま本に書いてあることであり、多くの專門家が指摘をられることです。それも、つい最近になって、ではなく、かなり以前から。
けふは電力需給がテーマではないので、簡潔な説明にとどめますが、原發をなくしても電氣は足りるのです。
電力會社別データをみると、全電力會社で、原發をのぞいた發電量(供給)が、消費電力(需要)を上まはることがわかります。もちろん、原發比率がたかい關西電力・九州電力もです。
はたまた、東京電力の計畫停電に懲りた企業等が、自家發電をうごかしはじめ、需給にいっそうのゆとりが生まれてをります。設備投資による節電效果も、でてくることでせう。
さらに、電力會社以外の電氣事業者も、じつはたくさんあるのです。獨立系發電事業者IPP(Independence Power Producer)は、大小さまざま、全國にたくさんゐます。資源エネルギー廳の認可出力表によると、2010年9月のIPPの發電能力は、6000キロワットを超えてをります。
つまり、原發をなくしたとしても、電力會社9社だけで電氣が足りるのであり、企業等の自家發電・IPPによる發電をふまへれば、絶對に電力不足にはなりません。
その眞實は、分厚くてむつかしい專門書を讀まなければ知りえないことがらではなく、一般むけのわかりやすい書籍をめくれば、すぐにわかることでございます。つまり、知らなかったといふ言譯が、通用しないのです。
不勉強も、ほどほどにしてもらひたいものです。情報がすくなかった昭和前期とは違ふのです。書籍が山のやうに賣られ、インターネット空間からも情報蒐集ができる。この現代日本において「知らなかった」といふことは、《過失犯罪》です。
政治家は、とくに不勉強を反省してもらひたうございます。そんな體たらくだから、すぐ官僚に操られてしまふのです。《政治主導》を企てて、逆に《官僚主導》がつよまってしまった眞因です。
「原發をなくすと、はじめのうちは電氣が足りなくなるけれど、・・・・・・。」
「電氣が足りなくなるから、すぐには原發をなくせないけれど、・・・・・・。」
そんな《枕詞(まくらことば)》は、もうききたくありません。
(3)ものごとには《情》《理》といふ、ふたつの性格が存在し、その割合に應じて、なすべきことが決定される。
いままでの脱原發運動をみてきて、わたくしは、齒がゆいおもひをさせられてきました。運動の性格が、《理》ではなく《情》の方にかたよってゐるからです。《理》とは、理性・論理・理論のこと。《情》とは、氣持・感情のことです。いまの脱原發運動は、《情・理》の區別ができてゐないと、わたくしは感じます。
どういふことか、これから御説明いたします。
たとへば、異性に告白するとき・口説きおとすとき、どんなふうに語りますか?まさか、演説口調にはなりますまい。評論文の文體のごとく語る人も、だぶん皆無でせう。なぜかといへば、それが不適切・的外れな方法だからです。
男女の關係は、純粹な《情》の世界でございます。政略結婚・謀略結婚ともなれば、《理》がはひってまゐりますが、いまはそれを除外します。一人の男と女の、閉ぢられた世界。そこでかはされる言葉は、《情》によるものだけです。《理》が介在する餘地はありません。だからこそ人は、好きな男(女)にたいしては、《理》ではなく《情》をもって語りかけるのでございます。みなさんの御經驗にてらせば、納得していただけるのではないでせうか。
さあここで、電氣の問題を考へてみます。電氣の問題を語るとき、どのやうな方法で語るのが適當ですか?
「わが國の原發をどうするか?」
「わが國の電力割合をどうするか?」
といふ問題は、《理》に屬することがらでございます。けっして《情》ではありませんね。むろん、《情》にまったく屬さない、とまでは申しません。割合如何ですが、《理》より《情》の割合の方がたかいとは、まさか言へませぬ。それならば、電氣の問題を語るにあたっては、《理》の割合を壓倒的にたかくしなければならないはずです。數字データをかかげ、《理》づめで相手を説得すべきであります。
ところが、これまでの運動の樣子は、それと反對の相をしめしてをります。さきほどの「電氣か、生命か。」といふ二擇でおどす、といふのをはじめ、
「情にうったへる。」
といふ方法が、非常に多いのです。その傾向は、いかがでございませう。運動のやり方として、適切と言へるでせうか?
情ならば、原發推進派・容認派にもございます。そして、《情の世界》においては、個々の情の優劣が存在しません。すべての情が、平等にとりあつかはれるのです。それはつまり、勝ち負けがつかないことを意味します。
勝負がつくとすれば、壓倒的な數の《情》でもって、少數派の《情》をおしつぶす、といふ方法によるほかありません。しかし、それをすると當然、相手の猛烈な反撥をひきおこします。最後のひとりになるまで、抵抗をつづけるかもしれません。
日本人が得意とする《空氣づくり》も、《情》による壓力と言へます。雰圍氣をあらかじめつくっておいて、反對できない心理的障碍をまうけるわけです。しかし、その方法は、最良の方法と言へますか? 假にそのときはうまくいったとしても、あとあと禍根をのこすのではないでせうか。
東北大震災・福島第一原子力發電所の事故まで、原發推進派は、原發が安全でクリーンなエネルギーであるといふ《雰圍氣》をつくりだしてきました。實情をしらないわれわれは簡單にだまされてしまひ、反對運動は低調でした。その《雰圍氣》にのまれてしまったわけです。さうして、原發に反對することじたいが、さもいけないことであるかのごときムードが、釀成されたのでした。かくして、反對運動をする人は、白眼視されてきたのです。
種々のデータを檢討すれば、原發が安全でなく、クリーンなものでもないことくらゐ、すぐにわかったのです。それなのに、さういふ檢討をせず、雰圍氣を盲信してきた。《情》の世界にとどまって、それに滿足してきたといふことです。
そのひとりよがりな滿足が、福島原發の事故をひきおこしてしまったのだと、われわれは反省しなければなりません。原子力ムラの人間をせめるだけでは、反省したことにならない。かれらもわるいのですが、だまされたわれわれもわるいのです。
みづからの誤りを反省し、つぎに活かすためには、誤りの根源を斷たなければなりません。われわれの誤りの原因は、雰圍氣といふ《情》のみを信頼し、《理》をおろそかにしてしまったことにあるのです。
つぎに《理》をもって運動するとは、具體的にどのやうな運動をすることでせうか?
わたくしがおもふに、たとへば、かういふ運動をすればよいのです。
①データをしめして、《原發を即時廢爐にしても電氣は足りる》、といふことを周知徹底させる。
②データをしめして、《原發がなくなっても産業界にしわが寄ることはない》、といふことを産業界すべてに知らせる。
③データをしめして、地球温暖化の主原因が二酸化炭素でないことを周知し、火力發電《惡玉》論をくだく。
④實例をしめして、自然エネルギーにたいした將來性がないことを知らせ、國民に選擇を誤らせないやうにする。
⑤實例をしめして、有望な新エネルギー技術の數々を紹介し、原發なしの未來がバラ色であることを宣傳する。
ここで《理》の運動に不可缺なのが、
「データをしめして」
といふ點でございます。數字・事實・實情をかぎりなく列擧してこそ、原發肯定派の逃げ道をふさぎうるのです。さすれば、いやでも脱原發にむかってゆきます。
データ・根據をしめして説得することこそ、《理》をもって運動するといふことです。逆に言へば、そのやうな行爲をともなはない運動は、ただの《雰圍氣づくり》であり、プレッシャーでしかありません。その點においては、原子力ムラがおこなってきた行爲と、なんら變りがありません。つまり、同罪である、《同じ穴のムジナ》である、といふことです。
いいかげん、その方法が誤りであることに、氣がつかなければみっともない。
「日本人は過去の教訓に學ばない。」
「日本人は進歩しない。」
と、後ろ指をさされかねません。わたくしはいやですよ、そんなの。
空氣をつくって壓力をかける、といふ方法は、事故をおこした原子力ムラの手口と、まったく同じでございます。同じ轍をふんではなりません。こちらは、あくまで《理》づめで戰ふべきです。電氣の問題は《情》の世界ではなく、《理》の世界に屬することがらなのですから。
(本篇 終)
コメント・質問等、どんどん御寄せください。「この字、よめないんだけど?」といふものでも、かまひません。よろこんで、御答へいたします。
ここで、參考にした本の御紹介です。世の中には、この本のほかにも、すばらしい本がたくさんあります。すばらしい先生が、たくさんいらっしゃいます。御自分の目でおさがしになり、いろいろ讀んでみられることを、ここでつよくおすすめいたします。
本を讀みはじめると、自分の視野がいかにせまかったか、自分の考へがいかにあさかったか、がわかります。《井の中の蛙》が、《大海を知り、泳ぎはじめた》瞬間です。ひとり(一匹)でも多くの《井蛙》に、《大海を知って、泳ぎはじめて》ほしい。本ブログのタイトル「井蛙(せいあ)、大海を泳ぐ。」は、そのやうな願ひをこめて、かかげました。
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最後まで讀んでくださり、ほんたうにありがたうございます。「データをしめして、脱原發運動をもりあげよう!」と御おもひになったかたは、ぜひ、《人氣ブログランキング》に清き一票を、よろしく御頼み申上げます。

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