gooニュースより

http://news.goo.ne.jp/article/newsengf/sports/newsengf-20100326-01.html



高橋大輔、自分に挑んで日本初の優勝 そのカッコよさにダンサーを観る

肩の力を抜いたゆるい「暇ダネ」英語をご紹介するはずの金曜コラムですが、今回もバンクーバー五輪に引き続き、肩に力を入れまくって観ていた男子フィギュア世界選手権について。自分に挑戦して実にカッコ良く自分に勝った高橋大輔選手に、私はやはりダンサーの魂を見ました。(gooニュース 加藤祐子)


○四回転論争は振り出しに?

イタリア・トリノの世界選手権で、高橋大輔選手が日本男子初の優勝。プログラムはバンクーバー五輪とほぼ同じ内容でしたが、イタリアで、イタリア映画「道」を氷上で表現するという、そこからしてもうドラマチックでした。


AP通信のコリーン・バリー記者は、「エヴァン・ライサチェクとエフゲニー・プルシェンコからの競争がない状態で、五輪銅メダリストの高橋大輔は自分で自分に挑み自分を駆り立てる(challenge himself)しかなかった」と。


その結果、高橋は今季世界最高の257.70点(SP89.30、フリー168.40)という、バンクーバー五輪のライサチェクよりもプルシェンコよりも高い点数で優勝。しかも、きわめて高難度の4回転フリップに挑戦した上で(回転不足と判定されましたが)。


これをAP記事は「he did it with flair」と。「華々しく達成」とか「粋に達成」とかいう意味です。つまりは、「かっこよくやってのけた」と。


しかも、ここで4回転(quadruple、クワド)に挑戦したことで、高橋は「let everyone know he's back in the quad game(自分がクワド競争に復帰したと皆に知らしめた)」のだと。そして高橋は「raised the quad bar with the flip(フリップで、クワドの基準ラインを上げた)」のだと。


これはつまり、バンクーバー五輪では4回転を跳ばなかったライサチェクが優勝し、跳んだプルシェンコと高橋が銀・銅だったため、「To quad or not to quad?(4回転を跳ぶべきか跳ばざるべきか)」論争は「跳ばない」で決着したかのように言われたのだけれども、今回の高橋優勝でクワド論争はまた振り出しに戻ったということなのかもしれません。


○アスリート=表現者

私はフィギュアスケートを詳しく観る目を持たず、語る言葉を持たないため、フィギュアよりはまだ少しは分かる「踊」の観点でどうしても観てしまうのですが、そうやって観ていると、高橋大輔選手とプルシェンコ選手は傑出する点がよく似ています。それは何かと端的にまとめてしまえば、表現者としての情熱です。


どうだ、僕のこの技を見なさい、僕の技が作り出す空間の叙情に酔いなさい、僕の動きが作るこの体のラインを見てその物語性に酔いしれなさい——だなんて、彼らが言うわけもありませんが。観ている側はそんな台詞を勝手にアテレコしたくなる。そういう「表現」になっている。そしてプルシェンコ選手に至っては、彼はロシア・バレエの伝統を氷上で継承しているのだと思うこともあります。


フィギュアに詳しい友人に言わせると両選手のこの特徴は、「自分の身体を使って生み出す『物語性』に対する想いの強さ」故のものではないかと。その辺が、アスリートであると同時に、バレエ・ダンサーを連想させるのではないかと私も思います。男子でも女子でも、ほとんどのフィギュア選手から受ける印象は「アスリート>ダンサー」なのですが、高橋、プルシェンコ、そしてジョニー・ウィアーを観ていると「アスリート=ダンサー=表現者」だと強く思います。


ほかのほとんどのスポーツは、優れたアスリートでさえあればそれで充分なのに、フィギュアスケートは表現力を競う競技でもある。だから常に、アスリートであることに加えて表現者としてのプラスアルファを云々されなくてはならない。そういう二面性をおのずとはらんでいる、ある意味で特殊な競技です。


そういう競技を選んだ競技者として、高橋もプルシェンコも、アスリートだからこそ「より高く、より速く」、難易度の高い技に挑戦するのでしょうし、ダンサーだからこそ、より難しく美しい技に挑んでより素晴らしい演技をしたいと希求する。そういうドラマチックな本能が、彼らを駆り立てるのではないかと。


「行けそう、行っちゃえ」と。クワド(4回転)フリップを。


高い技術に加えてそういうドラマ性が彼らの中に内在していて、それが演技の時にほとばしる。だからこそ私は強く感動して、こうして言葉を紡ぎたくなるのだろうなあと。昨日と今朝、高橋選手の演技を観ていて、改めてそう思いました。