魏の名将・郭淮(2) | 髀肉の嘆

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iPhone、Mac、三国志(中国古代の歴史&コーエーのゲームソフト)ネタを中心に、思ったことを勝手に書きます。

郭淮の話が止まっていました。

結論からいうと、陳寿は満寵や郭淮伝の後に、「評にいう」として、こう記している。

郭淮は方略に精通しており、秦州・雍州において名声を流した。

その後に郭淮の業績を否定するような記述はないので、陳寿の目から見ても、特に否定すべき要素のない、そつのない武将だったと思われますね。

1に記した定軍山の戦いの時の撤退の様子は、まだ曹操が存命中の話でした。

これ以降のエピソードは、すべて文帝の即位後、すなわち曹操の死後になる。

知勇に通じた武将であったにもかかわらず、なぜか陰が薄い。そう感じてしまうのは、一つには、曹操という一人の屹立した大人物が消えた後の歴史だからではないか。三国志は史書そのものが魏の視点から書かれているから仕方のない側面はあっても、やはり、中心軸には常に曹操がいた。その図式も、曹操の旗揚げ、曹操vs劉備、あるいは曹操vs董卓、曹操vs呂布、曹操vs諸葛亮、曹操vs周瑜という大きな枠組みがあって、その中で、夏候惇が片眼を失ったり、桃園の誓いの逸話が語られたり、私のブログのタイトルの「髀肉の嘆」のエピソードが生まれたりしている。

曹操と対決した人物のほかは決して[only one]にはなり得ず、あくまでも[one of them]に過ぎないように思うのです。

文帝即位の後は、劉備を軸に歴史が語られ、劉備なき後は、もっぱら、諸葛亮vs司馬懿という図式がデーンと中心にあるように思うのです。

郭淮の活躍も、諸葛亮vs司馬懿という「井戸の中」に閉じこめられているので、いくら話しても盛り上がらないのかもしれません。

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諸葛亮(「三才図会」より。ちくま学芸文庫『正史三国志4』の表紙にある絵)

ただし、正史・三国志を読む限りでは、曹操存命時代の武将たちに決して劣ることのない、知勇兼備の将軍だったことは間違いない。ただ「語られる歴史」という意味では、相対的に存在感が小さい。それだけの話なのだと、私は納得している。

さてさて、、つまらぬ自己流の歴史観を押しつけるのは、これくらいにします。


正史に綴られた郭淮の活躍です。(以下は、ちくま学芸文庫『正史三国志4』の「郭淮伝」を参照し、あるいは抜粋、要約したものです)

2諸葛亮の北伐に抗する

228年、「泣いて馬謖を斬る」の故事を生んだ街亭の戦い。
ここで郭淮は高詳を打ち破って、馬謖を打ち破った張コウに呼応した。

また、隴西(ろうせい)の羌族の名家・唐テイを打ち破った。

231年、蜀が鹵城(ろじょう)に出陣した時、魏軍には穀物がなく、漢中から輸送しようと評議していた。郭淮は威光と恩愛をもって羌族をなつけて帰順させ、家ごとに穀物を出させ輸送の労役も割り当てた。兵糧は充足した。

234年、諸葛亮は斜谷(やこく)に主人すると同時に、蘭坑(らんこう)で田作をおこなった。
司馬宣王(司馬懿)は渭水の南に駐屯していた。郭淮は諸葛亮が北原を争うに違いないと判断し、先にその地を占めるべきだと主張したが論者の多くは賛成しなかったが、司馬懿が賛成し、郭淮が北原に駐屯した。
塹壕・塁壁が未完成のうちに、蜀兵が多数来襲したが、郭淮はこれを迎撃した。
数日後、諸葛亮は兵力を誇示して西方へ移動した。西の陣営を攻撃するつもりかと諸将は判断したが、郭淮だけは違った。
「これは西方攻撃の姿勢を示して、当方をそっちにひきつけるものであって、実際には陽遂(ようすい)を攻撃するにつがいない」
その夜、はたして蜀軍は陽遂を攻撃してきたが、備えがあったため蜀軍は近づくことが出来なかった。



実に、しぶ~い武将である。
「郭淮は威光と恩愛をもって羌族をなつけて帰順させ、家ごとに穀物を出させ輸送の労役も割り当てた」という表現に、西域の放牧民を手なずけた手腕の見事さへの尊敬と高い評価がうかがえる。

いくつかの三国志を描いた物語でも、蜀と魏の戦いにおいては、穀物をどちらが制するかが一つの焦点になっていた。
その焦点の中心で活躍していたのが郭淮だと考えれば、魏軍にとっては、頼りがいのある将軍であったのだと思う。あるいは、勝利を呼ぶ「福の神」のように思われていた可能性も高いのではないか。

また続きは、後日、記したいと思います。