糟糠の妻 | 髀肉の嘆

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「糟糠の妻」という言葉がある。

糟糠(そうこう)とは、米のカスとヌカのこと。
米のカスやヌカのようなものしか食べられないほど貧しい時代を、苦難を共にした妻のことである。

この言葉、後漢書に出てくるんですね。
読んでいて気がつきました。

後漢書の宋弘伝に出てきました。
(『後漢書第四冊(列伝二)』岩波書店、P186から、以下は抜粋要旨)

宋弘という人がいた。温順であり優秀な人物だったようである。漢から王朝を簒奪した王莽の時、反乱軍に追われた。追いつめられて橋から川に身を投げた。家人が救い出して、死んだものとして扱って、反乱軍から逃れた。

やがて王莽の天下は終わり、光武帝がたち、後漢王朝が始まった。
光武帝に信頼された宋弘は、その才能を大いに発揮した。

光武帝の姉の湖陽公主が寡婦になった。帝は、姉の意を探った。
公主がいう。「宋弘には、威厳のある風貌と道徳的な器量がありますね」

しばらくして帝は宋弘を呼んで尋ねた。
「ことわざに、貴くしては交わりをかえ、富みては妻をかう(身分が高くなればつきあう人を変えるものだ。裕福になれば妻を変えるものだ)というが、これが人情ではないか」

宋弘は答えた。
「私は聞いています。貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂よりおろさず(貧しかった時代の友人は忘れてはならない。ともに苦労した妻は粗略に扱わない)と」



これだけが書いてある。宋弘が実際に妻とどういう苦難の道をたどったかは後漢書には書かれていない。

ただ、反乱軍に追われていた時に水死したようにみせかけてまで生きながらえた。
そうやって苦労してきた妻である。
貧しくても自分についてきてくれた。支えてくれた。そんな妻をすてられるわけがない。
そんな感情論を皇帝の前で披露するわけにはいかなかったのだろう。
せめて「糟糠の妻、堂より下ろさず」と答えるのが自分に嘘をつかずして皇帝ならびにその姉君を傷つけない言い方だだと、宋弘は思ったのだろう。

ただ、皇帝の姉の申し出を断ったのである。
後漢書では、あくまで光武帝は、心広く宋弘の言い分を受け入れ続けたように書かれている。その大部分は事実だと思う。
が、この一件で宋弘への言いしれぬ恨みを抱いたことも、また想像に難くない。自分のやることに、いちいちけちをつけ、しかも正論なので反論できない。だからこそ、宋弘の言うとおりにやってきた。

後漢書の記述によると、この一件から五年後に罪に問われて失脚する。その後「数年にして卒した」とある。

大業が成し遂げられ、内政も安定してきた時となっては、宋弘の存在は、不要だったのだろう。

糟糠(そうこう)の妻

宋弘(そうこう)の妻
の故事でもある。

それなのに、肝心の「宋弘の妻」がどういう人であったのか、後漢書には書かれていない。

宋弘は、光武帝の姉の一件を断ったことで、いずれこうなるであろうという結末は見えていたのではないか。それでも、あえて、苦難をとものした妻を捨てることはなかった。皇帝の姉よりも、一緒に苦楽をわかちあった妻のほうが上であると、高らかに宣言したことになる。少なくとも、歴史に残り、故事としても語り継がれているわけである。

どんな高貴な女性よりも、苦難をとものした伴侶のほうが、はるかに尊いのだ。

世の夫君の皆様、ちょっとくらい妻が太ったからといって、愛想をつかしたり、ケンカして逆ギレしてはいけませんよ。自分への戒めも含めてそう思うのです。

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