何のために生きている? ブログネタ:何のために生きている? 参加中
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ども。(未だに下書きがうまく出来ない、何故だらう・・・(ノ_-。)下書きってわりと重要なモノだと最近つくづく想うです)


何のために生きている?

この問いは哲学的ですよね。
つか、哲学そのもの(笑)

私は学生の時に心理学や哲学の授業を取っていました。
「ココロ」というものを知りたくて。

そうして学んでいった私の思考は「なんのために生きている?」という疑問にいつも行き着いてました。


さて。
「何のため」。
これは、色んな行動に対し、定義づけをしたい「思考する動物である人間」のクセだと私は考えます。

他の動物は定義づけなんか考えてないと想います。
自分の身に危険が迫ったら、本能で逃げるなり、闘うなりするでしょう。
その結果、生き残るか、死か・・・それだけです。
生き残った動物が「どうして生き残ったんだろう」とは考えることはないと思います。
そんな観念的なことは考えず、「次襲われたら、こう逃げよう」ぐらいは考えるかもしれませんが、それ以上のことは多分考えていないと、想います(動物たちに聞いたわけじゃないので、断定しません)。

人間は、どうして「生きている」、ということを考えるのか。

多分(あくまで個人的な主観でしかありませんが)前述した「定義」「理由」がないと「不安」だからなのではないかと想っています。

不安感というのを感じたことのない人はいないと想います。
上記のようなネガティブな部分を持たない人間がもしいたとしたら・・・すげー、とは想いますがちょっとどうなの?と想ってしまうかも(^^;)。ちょっと怖い気もする・・・。

不安などを抱え、ココロに痛みを持つ。
それを癒し、人としての深みを持たせる糧とし、成長していく。
それが、人間だと私は想っています。

そうして、自分の不安から成長していくにつれ、想像力が養われていく。
何をすれば、相手が傷つくか、何をすれば、相手が喜んでくれるか。

そうそう。
最近私が「ん?」と想うこと。

「お互い様」という言葉の使われ方に首を傾げてしまうことがあるんですね。
携帯電話も、パソコンもなかった時代・・・あぁ、判りやすく言えば宮崎アニメ、「トトロ」の時代です。
あの時代の「お互い様」は、困っている相手を思い遣って「お互い様」という言葉を使っていたと想います。
けれど、最近はお願いする側が「お互い様でしょ?」と言ってしまう場面が多く感じています(私の周囲だけかな?)。

私自身、弱い人間です。いえ、強い人間など、いないと想っています。強くならざるを得なかった人間はいると想いますが・・・。

そんな私ですが、誰かが困っていれば助けたいという気持ちはいつも持っています。自分の力が及ぶ部分でしかないですが、もし少しでも助けになるなら、と考えます(反面、出来るはずもない力を貸そう、という思いを持たないようにしています。それは傲慢だと想っているので・・・)。

人間、誰しも必死に生きていると想います。
必死に生きて、頑張って、それでも苦しい時、他人に助けを求めること。これは将来の自分にも当てはまるかもしれませんし、前述したように出来るだけの自分の力を貸すと考えています。
友人などから「困ってるから助けてくれるかな・・・?」と、その人が必死にしてきたことを見てきた場合「私に出来ることがあれば」と言えます。


けれども、この便利な世の中で、気軽に頼むことが多くなってきたように想うのです。
そのうちの一つが「お互い様よね。よろしくね♪」という言葉に感じるのです。

「お互い様だから助けて♪」という前に、出来る限りのことをしてきたのかな?と想った時、ふと、母との会話を思い出したのです。

「携帯電話の使い方が判らないんだけど教えて~」
「説明書を読もうぜ」
「PCの使い方が判らない~」
「説明書を読もうぜ」

これらは、私の母が言ってきて、私が答えた言葉です(^^;)

そういう機械などは説明書やサポートセンターなどに問い合わせれれば、答えを得ることも出来るでしょう。ただ、自分で考えずに言われたまま、それらを利用すればすぐ次の壁にぶつかるとは想いますが。
なんというか・・・頼む側の気軽さに、これからの人間関係の不安定さを感じてしまうのです(大袈裟かなぁ)

あぁ、少し話題がそれました。
さて、「人はなんのために生きるか」
この問いに戻りましょう。

私自身の出した答えは

「理由などありません」。

人間が出来ること、それは自分が経験したこと、それらから得たことで想像力を養い成長し、自分の「説明書」を一生作っていくこと、それだけだと想うのです。

今流行りの血液型の説明書云々で得た考えではありませんので、念のため。
あまりにも、考え込んでた学生時代の私がたどり着いた答えです(暗いですね~我ながら、ハハハ(^^;))。

そして、自分の説明書を綴っていく長い人生の中で、ふと我にかえる時「自分は(人は)なんのために生きているの?」という疑問にぶつかるのだと想っています。

長い人生。
これは物理的な長さで言っているわけではありません。

私自身のことを言えば、十年前、今も自分が生き残っているなんて考えもしませんでした。
これは私の病ゆえですけれど、本当に実感します。
何度、説明書を綴り、立ち止まり、そうして私は自分の病を知ってから、一度は説明書を破こうとし、今は書き直す作業をするために、こうして生き長らえることが出来ていると想っています。

人生とは何か?生きるとは何か?
その問いが生まれるたびに、私は自分の描いてきた説明書を紐解きます。

そして、何度も確信するんです。

「意味はない」
「どういう偶然なのか、巡りあわせなのか、全く判らないけれど【生かされている】自分がいるだけ」。

決してネガティブに考えているわけではありません。
何故なら、生きていくのは人生をサバイブしていくことだと想うからです。


日々を精一杯生きる。

そして、色んな「明日」があるけれど、満面の笑顔で迎える「明日」がある。
これに勝る悦びはないと想っていますが、そう想える心を実感出来ること、これこそが「生きる意味」なのかもしれませんね。

以上が「人はなんのために生きるか」という問いに対する私の考えです。
こんな考えもあるのか、と想ってくだされば幸いです。


判りにくく、観念的で、更に日本語のおかしい(^^;)長い文章を読んで下さってありがとうございました<(_ _)>。

ではヾ( ´ー`)