ども。
考えすぎて頭がイタい(苦笑)
だってねぇ?
大人っていう定義を体現するような人物にお目にかかったことが殆どないから。
「少年のような」に勘違いしているイタい男もいるし、「乙女」な気持ちを美しいというイタい女もいる。
あ、少年の心も、乙女の心も否定はしないですよん。
が、それは一つの形として内面に押し留めておけばいいのであって表看板よろしく他人に対して強調すべきことじゃないと思う。
他人が、その相手(大人)をどう判断するか、に任せるのが賢い大人なんだろう。
そうそう、この「賢い大人」という言葉に最近何か違和感を感じる私はひねくれ者かな?
ん~、なんていうか情報が多すぎて、賢さが賢しさ(さかしさ)になっているように思えてしまうのだ(辞書の第二定義、いわゆる小賢しいとか、そーいうマイナスな感覚)。
この言葉を顕著に現しているのが「知ったかぶり」かな?
うっ・・・他人のことは言えないか。私にもそういう面はあるからなぁ~。
自分のそういう部分に気がつくと「やっちまったな~」と後悔する日々です(^^;)。
ん・・(¨ )?
後悔することを繰り返し、学んでいったら大人に近づけるのかな?
基本、人間っておバカだから(^^;)ワタシモネ、前回書いた通り身を持って知ること、想像力を鍛えないと人間は成長しない、というのが私の持論。
そこには当然「失敗」も含む。
というか、失敗を経験することが一番の成長に繋がると思う。
そして、失敗は苦労を呼ぶ。
誰もがしなくていい苦労は避けた方がいい、と考えると思う。
でも先人は賢かった。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」
実年齢では当然若くはないので、コラコラ、と怒られるかもしれないな(^^;)
けど、私は若い特、だけじゃなく全ての年齢についても言えることだと考えている。
それだけ「苦労」という経験は大事だと想うから。
失敗することで、苦労を背負い込むけれど、それがどれだけの「人としての糊代」になるか。
ありがたいものじゃないかな、と私は思う。
けれど、逆に失敗を恐れ、失敗したことすら認めない人も少なくない(うーん、リアルに身近にいるぞ(苦笑))。
恥をかくのがイヤだ、とそーいう人たちはいう。
私も出来ることなら恥はかきたくない。でも恥をかき、冷や汗を流してこそ身になる、と思えればなんでもありがたいことだよな、と思える。
んが、同じことを繰り返しても判んない大人たちが多すぎる。
更に「あの人はそーいう人だから」とか「自分にはここまでしか出来ないから」と勝手に限界を決めてしまう。
何回も繰り返すのは「大人」じゃない。
何回も繰り返すこと「が」ダメなのじゃなくて、繰り返す段階で少しずつでもいいから前に歩いていけばいいと思う。
それこそ、幼子が寝返りがうてないことから始まって、ハイハイが出来るようになって、たっちが出来るようになるまで、繰り返し繰り返し諦めず(幼子には諦める、という認識はないと思う。巧くいかなくていらだたしさのために泣くことは数あれど)、徐々に成長していく。
大人という括りにいる私たちは何故か努力という行為を数回することで、現状の変化がなくても満足してしまうきらいがある。
それは「諦め」なんだけど、そう思ってはいないから、なんだかな~と小首を傾げたくなる(諦めていない人もたくさんいる、念のため)。
幼子には限界なんていう言葉は頭からない。
大人には限界なんていう便利な言葉が身体に染み付いている。
だから、限界というものが見えた時に・・・たとえば、何キロ先に限界という看板が見えたら、まだまだ大丈夫なのにとっとと前方迂回をしてしまうような感じかな。
これじゃあ、いつまでたっても「大人」にはなれない。たどり着けない。
かく言う私も、自分のキャパを越え、壊れちまったよ~と弱音を吐いての今の状態だから褒められたもんじゃないし、そんな私が「大人」について語るなんて片腹痛いことだろうとは思う。
そんな私だけど、言いたい。
限界を自分で決めることなんてない。
実年齢的に大人とみなされた人が自分で限界を決め付ければ、そこで人として産まれた自分の成長を放棄しているんじゃないか、とも思うから。
惰性の人生を送ること、これは楽だろう。
でも。
精一杯生ききりたいと思うのは間違った思いだろうか?
他人様の生き方に文句をつけるつもりは毛頭ない。
惰性で生きるならそれでいい。
でも、一生懸命生きる人の邪魔だけはして欲しくない。
「やっても無駄」「あがくなんてみっともない」なんて、それこそ判ったふりをして諭して欲しくなんかない。
うーん、まとまってないなぁ(^^;)いつものことか(苦笑)
この題材(大人って?)も多分、ずーっと自問自答していくことだ、ということは書いてて再認識したかな。
いつも独りよがりな文章ばっかりですね、すみません<(_ _)>
それでは本日はこれでヾ( ´ー`)