善徳女王 ②脚本 | ひまわり

善徳女王 ②脚本

ひまわり


「善徳女王」熱く語ろう友の会の皆さん、こんばんこ☆

これから、このドラマについて熱く語っていきます。
書きたい項目があまりにも多いので、数回に分けて書いていきます。

ワタクシ、最近、生意気ながらも思うのですが、
「良いドラマ」というのは、脚本・演出・俳優の演技力、これらが全てバランスが取れている作品なのではないかと思うのです。

いくら脚本が優れていても、俳優の演技力がなければ魅力が半減するし、
いくら俳優の演技力が優れていても、脚本が優れていないと、魅力はないに等しい。

これらは、すべてそろったらその相乗効果たるや、はかり知れませんが、
一つでも欠けるとつまらない作品になってしまったりすると思うのです。

その点で、このドラマは、すべてバランスがとれていたと思うのです。

まず、脚本!!!!

出だしからして映画のようにドラマティックでしたね。

チヌン大帝の導入部分からのスタートで、トンマンが「何のために王になるのか?」、意義を見つけ出すための重要なテーマである「不可能な夢」の重大性を暗示するようなシーンでした。

そして、これは、イ・ビョンフンPDの受け売りですが、
「双子を産む」ということにして、トンマンが逃げ出さざるを得ない状況を作り、果ては中国まで逃亡させることによって、物語の壮大さを演出する脚本の力。

確かに、史実上、トンマンが双子であるとか、中国に逃げたとかいう記述はありませんが、こうすることによって、「善徳女王」という話の規模が大国中国にまで広がり、壮大なスケールのある話という印象を与えました。

私もどこかの書き込みに、「大陸の匂いまで感じる」と書いた気がする。

そして、何より気に入っているのは、トンマンの書き方なんです。

チョンミョン公主が殺されて、「こんな理不尽な世の中は許せない!」とチョンミョンに代わり王位につく決意をします。

しかし、ムンノに「なぜ王になるのか?」を問われて変わっていきます。
ただ、チョンミョンの無念を晴らすため、ではなく、新羅の国の発展をも考え、
なぜ、ミシルではなく、自分が王位に就くべきなのか、王位について何をすべきなのか。
これを深く考えるようになりました。
この時に、なぜ、チヌン大帝が「不可能な夢を見ろ」と言ったのかも理解します。
父である陛下にも理解できなかった言葉を理解したということは、彼女が王の器であることを物語っています。

そして、新羅が生き残っていくために必要な政策である「三韓一統」、これを果たすために、
敵であり、復讐したい相手のはずのミシルの言葉をも吸収し、
人「財」を貪欲なまでに追い求めていくようになります。
反面、自らも人「財」を吸収できる大きな器に変貌していくのです。

だからこそ、ミシルという一つのカリスマが消えて以降も、このドラマの面白みが消えませんでした。ピダムとのロマンス?のようなシーンもあり、それはこのドラマに色を添えましたが、
ユシンやピダムといった人「財」を絶対に手放したくないのは、なにも愛しているからではなく、彼らが新羅という国にとって必要不可欠な存在だったからに違いないと私は思います。
人「財」を切り捨てるのは、財宝を切り捨てるより惜しいことだとわかっているからです。

はっきり言って、ドラマの中のトンマンは、人間としては幸せではなかったかもしれません。
それでも、多くの人「財」を育て、「新羅」という国を作り上げていった過程は、
現代の政治にも応用してほしいものだと思いました。

前の職場で、「人材はいらない。人『財』になれ。」と言われました。この言葉に感銘を受け、私は必死に働きました。会社のためにというよりは、自分のために。でも、これによって多くの人に変化を与えられたと思っています。残念ながら、その他諸々の事情で辞職せざるを得なくなったので、最終的に自分が人「財」になったかは、判りませんが、未だに人「財」となる努力だけはしていきたいと思います。

…脱線しました。(笑)

一方で、トンマンは人生の終わりに彼女本来の姿も垣間見せます。
貪欲なまでの「王」である一方で、人生の終わりは「人間」でいたかったトンマン。
残念ながら、その夢は果たせませんでしたが、そんなトンマンだったからこそ、
単なるカリスマ的な王様のお話で終わるのではなく、ヒューマンドラマの要素も含まれた、
多面的なドラマになっていたと思います。

それに、このドラマのもう一つすごいところは、登場人物が全員、「生きている」感じがしました。それぞれ、個性があって、誰一人欠けてもこのドラマは成立しないと思わしめる要素がたくさんありました。

登場人物たちについても多くを語りたいので、それはまた別の機会にしようと思います。

ひまわり


ピダム~ラブラブ