桂浜は、高知県高知市南部に位置し太平洋に面した浦戸地区にあり、竜王岬と竜頭(りゅうず)岬の間に砂浜が広がる景勝地で、坂本竜馬ゆかりの地や月の名所として知られている。土佐湾に向かい龍頭岬左が東浜、龍頭岬と龍王岬の間が本浜、龍王岬右が西浜に分かれていて「日本の渚・百選」にも選定されている。
桂浜には桂浜水族館や坂本龍馬の像、大町桂月(けいげつ)記念碑、吉井勇の歌碑などがあり、背後の台地頂上付近は長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が戦国末期に築城した浦戸城跡や坂本龍馬記念館などもある。浦戸城は、1591年(天正19年)長宗我部元親が桂浜北側の丘陵部に築き、一時この地が岡豊城に代わって土佐の中心地になった時期もあったが、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。
桂浜最大のシンボルとも言えるのが坂本龍馬の銅像で桂浜を望む高台にあり、太平洋の彼方を臨んで立っており、室戸岬にある中岡慎太郎像と同じ方向を向いてるといわれている。
1928年に桂浜旧台場の上に建てられた銅像で、高さ5.25m、台座約8m、総高は約15mである。それから70年がたった平成9年に像の内部に亀裂が発見されたために修復が行われ、平成11年3月に現在の龍馬像が誕生した。毎年、龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日を挟み、約2ケ月間、龍馬像の横に展望台を設置し、龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。
坂本龍馬
坂本龍馬は土佐が誇る英雄、1835年(天保6年)に土佐国(高知県)高知城下本丁(ほんちょう)に郷士坂本八平の次男として誕生。土佐藩脱藩後、ジョン万次郎、勝海舟の影響の下、外国へと開かれた目を持ち、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、薩長同盟の斡旋、大政奉還の元になる「船中八策」を提案するなど、新しい日本を目指し、幕末の日本に大きな影響を与えた。しかしその活躍故に、わずか33歳で暗殺され、その短い生涯を閉じることとなった。
「坂本龍馬」の名は、今日ではとても多くの人に知られていますが、本来の字も「龍馬」が使われている。以前、司馬遼太郎氏が「竜馬が行く」を書いて以来、現在では慣用化された「竜馬」の字が使われ、「坂本竜馬」と書く人が目立つが、「竜」は新字なので、本来の「龍」の字を用いた「龍馬」が正しい。又、読み方についても、「りゅうま」ではなく「りょうま」である。何故なら、坂本龍馬の生存した時代の書欄や日記の中に、「良馬」という当て字が随所に見られるからです。
坂本龍馬の生涯
実名は直柔(なおなり)、変名は才谷梅太郎(さいだにうめたろう)。1853年(嘉永6)、江戸に出て北辰(ほくしん)一刀流千葉定吉道場に剣を学び、文久元年(1861年)土佐動王党に参加した。尊皇攘夷の動きが高まる幕末の土佐で、そこに納まりきることができず脱藩。
在郷当時、海外事情に詳しい絵師河田小龍(しょうりゅう)の通商航海論に共鳴していた龍馬は、江戸で異色の幕臣勝海舟(かつかいしゅう)を訪い、その見識に感激して入門、単純な攘夷論を捨て、航海術を修業し、勝の信頼を受け、勝を補佐して活動した。 1863年には、勝の主唱による神戸海軍操練所の設立に東奔西走、10月その塾頭となったが、1864年(元治1)には勝の突然の失脚によって、操練所は解散。この間、龍馬は松平春嶽(しゅんがく)、横井小楠(しょうなん)、三岡八郎(由利公正(ゆりきみまさ))、大久保一翁(忠寛(ただひろ))ら開明の人士らの知遇を得、西郷隆盛とも知り合った。
操練所解散後、龍馬は薩摩藩の保護を受け、1865年(慶応1年)5月ごろ、同志を率いて長崎に商社(亀山社中)を設けて通商航海業に乗り出し、これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎と協力して翌1866年1月20日には京都で薩長同盟を成立。
その直後の23日、伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍(りょう)の機転で危うく難を免れ、お龍と結婚。
その後、海軍建設を計画し長州(山口県)の桂小五郎(木戸孝允)薩摩(鹿児島)の西郷隆盛を説いて 1866年(慶応2年)薩長同盟を成功させ長州に押し寄せた幕府軍(徳川方)を撃破。
山内容堂(ようどう)の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた土佐藩は竜馬に海援隊長、慎太郎に睦援隊長として土佐藩の遊軍を作った。これを機に討幕運動が高まったが竜馬は大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめ、これを背景とする王政復古を考え土佐藩の参政後、藤象二郎を説き立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を提案することにより1867年(慶応3年)将軍慶喜政権奉還を建白。竜馬はこれを喜び新政府創立に奔放したが同年11月15日京都河原町近江屋で幕府軍方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎とともに凶刀に倒れた。時に竜馬は33歳、慎太郎は30歳であった。
坂本龍馬の生と死
坂本龍馬は西暦1836年1月3日(天保6年11月15日)に生まれ、西暦1867年12月10日(慶応3年11月15日)に亡くなりました。彼が32歳という若さで亡くなった事、誕生日と命日が同じというのは、驚くべき事。
実は、この坂本龍馬という人物は、生前よりも死後に世の中の人に知れ渡る様な有名人になった。先ず、司馬遼太郎が小説『竜馬がゆく』を書き、ここで坂本龍馬が主人公で取り上げられたのを契機に、坂本龍馬は我が国で絶大な人気を誇る様になった。
坂本龍馬が暗殺によって一生を終えたのは、広く世に知られた事実だが、近江屋新助宅母屋にいて海援隊の人々と話をしていた時に、突然乱入してきた十津川郷士と名乗る男達に斬られた。
坂本龍馬と勝海舟
坂本龍馬と勝海舟に最も縁が深かったのが、勝海舟による創設の「神戸海軍塾」という所で、本来は神戸海軍操練所という名称で、政府の幕臣達の勉強の場所として創設された塾。この「神戸海軍塾」では、坂本龍馬は塾頭と言う立場、勝海舟の最愛の弟子となっていた様子。勝海舟はその身分から行動の自由が制約されており、その勝海舟の理念に対して働いたのが坂本龍馬、例えば、神戸海軍塾の設立をするに先立って、当然の事ながら資金が必要になるが、そういう場合に坂本龍馬が越前福井藩主の松平春嶽を訪ね、資金調達のお願いにあたる等をして動いていた。
坂本龍馬は、あらゆる面で勝海舟の理想から影響を受けており、後に行なった開国主義という考え方も彼から受け継いだり、薩長同盟という快挙も勝海舟が坂本龍馬を西郷隆盛に紹介した事が成功したと伝えられている。
坂本龍馬とおりょう
坂本龍馬に妻がいた事は、あまりにも有名。現在ではおりょうは横須賀市大津にある信楽寺(しんぎょうじ)という場所に埋葬されている。おりょうは、京都の町医者である樽崎将作という人物の長女。坂本龍馬が寺田屋騒動で深手を負った時に、おりょうが献身的に介抱したと言う話が有名で、この際、療養を兼ねて行った霧島への旅が、日本で初めての「新婚旅行」であったという話はあまりにも有名。だが、1867年11月15日京都河原町近江屋で凶刀に倒れため、僅か1年10カ月という短期間で夫婦生活は終わった。その後、おりょうは、西村松兵衛方という男性と結婚して「西村ツル」という名前になり、明治39年に亡くなったと言われている。
坂本龍馬と西郷隆盛
坂本龍馬が脱藩したのは、1862年3月の龍馬が28歳の時、脱藩した年の秋には、坂本龍馬は江戸に行った。そこで、勝海舟という幕府付けの軍艦奉行並に弟子入りした。勝海舟が残した『氷川清話』なる資料には、「坂本龍馬が自分を殺しに来た。」と書かれてあるが、元福井藩主だった松平春嶽が残した回顧録には、「勝海舟に坂本龍馬を紹介する為、松平春嶽が紹介状を書いた。」と書かれている。ともかく、坂本龍馬は勝海舟の為に、一心不乱に働いたと言われている。勝海舟が幕府から命じられた仕事の一環として、建設された海軍操練所とそれに併設された私塾に、坂本龍馬は入門して勉強しながら、勝海舟の片腕として働いていた。その後、勝海舟の使者として西郷隆盛と対面した坂本龍馬は、ここで正に運命的な出会いをした。
坂本龍馬と亀山社中
龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、1865年(慶応元年)に龍馬らに出資して「亀山社中」を結成。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曾根英四郎家を根拠地とし、下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋に事務所を設置。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、後の薩長同盟成立に貢献することになる。
1865年(慶応元年)5月、先ず土方と龍馬が協同して長州の桂小五郎を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させ、同時に中岡は薩摩で西郷に会談を応じるよう説いた。同年5月21日、龍馬と桂は下関で西郷を待ったが、現れず、桂は激怒し和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
幕府が国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止したため、長州藩は近代的兵器の導入が難しく、一方、薩摩藩は兵糧米の調達が困難だった。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案、この取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当これが初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエール銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義で長州藩への買い付け斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となり、また、近藤長次郎の働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、運航は亀山社中に委ねられることになった。
薩長同盟
1866年(慶応2年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航し妥結しなかった。 龍馬が1月20日に下関から京都に到着した夜に龍馬は西郷を説き伏せて、これにより薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となり、後に、薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。
京都伏見寺田屋
薩長同盟成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げていたが、この時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。 明け方2時頃、多数の捕り手が屋内に押し入ったが龍馬は拳銃で三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船「三邦丸」に便乗しておりょうを伴い京都を出、 3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡り、この旅は龍馬とおりょうとの蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
海援隊
海援隊旗=二曳(にびき)と呼ばれていた先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。この為、 薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与。
後藤象二郎尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩は、航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目し、11月頃から溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌1867年(慶応3年)1月13日に龍馬と後藤が会談。その結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称。
海援隊規約によると、運輸・交易・開拓・投機等の商業活動を行い土佐藩を助けることされ、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など 16~28人、水夫を加えて約50人から成っていた。同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
海援隊結成から程なく「いろは丸事件」が発生。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没。その後、龍馬は万国公法を基に紀州藩に賠償を要求して談判し、後藤ら土佐藩もこれを支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は賠償金8万3526両198文の支払に同意。
船中八策
慶応3年頃いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は藩船「夕顔丸」に乗船し兵庫へ向かった。京都では島津久光、伊達宗城、松平春獄、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤はこの為に京都へ呼ばれていた。龍馬はその船上で政治綱領を書き上げ、後藤に提示した。それは以下の八項目である。
大政奉還 - 政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すべき事
議会開設 - 上下議政局を設け、議員を配置して政事を参照し、政事は公議を以て決定する事
官制改革 - 有能な公卿諸侯その他の才人を顧問として、従来の有名無実な官位は除くべき事
条約改正 - 外国との交際は広く公議を採り、新たに至当な規約を成立せしむ事
憲法制定 - 古来の律令を折衷し、新たに法典を撰する事
海軍創設 - 海軍を拡張する事
陸軍創設 - 御親兵の設置を以て帝都の守衛をなす事
通貨政策 - 金銀物価は外国と均しく法を設ける事
以上の八項目は「船中八策」として知られることになり、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となる。
後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛、小松帯刀、大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、福岡孝悌、寺村左膳、真鍋栄三郎が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立。
近江屋事件
近江屋事件は、幕末の1867年12月10日(慶応3年11月15日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。京都見廻組の仕業であるとされる。龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、隠れ家の必要性を感じて、京都にある醤油商近江屋の裏庭の土蔵に密室を作り、移った。
12月10日、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、母屋の2階に行き、二人で暖を取りながら三条制札事件について話し合う。夜になり刺客音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡。暗殺直後に、真っ先に現場に着いたのは薩摩藩の吉井幸輔、土佐藩の田中光顕、谷干城、毛利恭介、海援隊隊士の白峰駿馬らである。