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 『慶長日件録』同年十二月八日の項です。

 

 「今日勧修寺儀同、晴豊卿第三回忌也、昨日可焼香之由、内々被示之間、辰刻、向彼亭、座敷相伴衆、廣橋大納言、中御門中納言、亭主、飛鳥井宰相、鷲尾宰相、阿野少将、左衛門佐、小川坊城、土御門左馬助、予等也、此外僧俗卅人斗有也、」


 勧修寺晴豊の三回忌の法要が行われたようです。前日にすでに焼香は済ませているようですが、錚々たる公家衆や僧たちが勧修寺家に集まり振舞いを受けたようです。


 勧修寺光豊が亭主です。光豊は後陽成天皇の武家伝奏をしていました。天皇の母である新上東門院晴子は妹にあたります。佐久間安政の室・光寿院の兄にもあたります。


 我が家の菩提寺・幡岳寺の過去帳の命日も、慶長七年十二月八日となっています。


 最初に出ている儀同というのは、晴豊の戒名のこの後に三司と付き、左大臣・右大臣・太政大臣に准する位の高い者という意味です。唐名(からな・中国での呼び方)です。


 この後の慶長十九年に、晴豊には内大臣の官位が与えられ、その戒名に贈内府(内大臣の唐名)が付く事になります。