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 船橋秀賢が生きた時代は、豊臣から徳川へと政権が移る波乱な時期と重なります。


 この間、佐久間安政・勝之兄弟たちも歴史に翻弄される事になりました。


 慶長二年(1597)三月、豊臣秀吉は安政に信州填島城(長野市信州新町)、勝之に信州長沼城(長野市穂保)を与えると約束しますが実行されませんでした。


 翌年、秀吉が亡くなった後の八月、徳川家康により安政には近江・佐和山の小川を、勝之には同所の山路に領地が与えられます。今の東近江市内です。


 慶長五年九月、兄弟は共に東軍として関ヶ原ノ合戦に参陣します。この時に、安政は敵の首三十六取り、勝之は織田有楽斎親子と共に活躍したそうです。本当かどうかは疑わしいですが、次のような逸話も残ります。


 勝之が戦場で石田三成を見つけました。馬を寄せて声を掛け、勝負を挑もうとしたが、安政が深入りして疵を負った為に三成を捨てて兄に従ったと言うものです。


 合戦の後、その功により家康から、安政には近江・高島郡に一万五千石の加増と左文字の刀と五月雨の葉茶壺、勝之には行光の短刀と九重の葉茶壺が与えられたそうです。


 この時が、我が家のルーツの地である近江・高島(滋賀県高島市)との関わりの始まりでした。この地こそが、祖父の代まで三百五十年間に及び一族が暮らした場所になったのです。