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 前田利家々臣の村井又兵衛重頼の書いた覚書です。


 「 柴田しゆり殿は越中に御入候、 注進もおそく、 まづ居城越前北庄まで帰陣、 其時に能州より度々利家公より使者被遺、 早々御出陣候にて、 明智を御打はたし、候へと被仰遺候て、 能登人数高松にそろえおかせられ、 利家公百計にて小松近辺まで御出御座候へども、 佐久間玄蕃何共不知、 浮世と色々申おさへ候内に、 はや上方一めんにきりしたがへ、 筑前守威光つよく候由注進おひおひき候故、 其後柴田殿御上候て、 御本城・三七殿(織田信孝)へも御礼候て御帰国の事、 」


 内容は本能寺ノ変の直後、越中から越前・北ノ庄に帰っていた柴田勝家に、主人である前田利家が、再々使者を遣わして明智光秀討伐の軍を進めるようにと進言した。その上、自身の軍勢を能登の高松まで進め、その策をもって利家公は小松まで行ったが、金沢の佐久間盛政はのらりくらり言って動かなかった。その内に素早く上方の羽柴秀吉が討ち平らげてしまった。その後、勝家は織田信孝に会いに行っただけで越前に帰って行ったというものです。


 主人である利家の素早い行動や考えを称え、すでにこの世にいない勝家や盛政の無能ぶりを示唆しているような内容です。


 しかし、実際はどうだったのでしょうか・・・・