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 皆さんも新聞などで御存知のように、京都府宇治市にある宇治川の太閤堤跡から基礎に使った大岩が見つかったそうです。


 現在の宇治川の流れは、豊臣秀吉が伏見城を造った時に城下に引き込む為にその流れを変えたものです。その時に、槇島堤・小倉堤・薗場(えんば)堤を築き、これらを総して太閤堤と呼ばれています。


 戦国時代、その流れの元となる巨椋(おぐら)池の中州には槇島城があり、その対岸に小さな岡本池があったそうです。


 賤ヶ岳ノ合戦後に越前で捕えられた佐久間玄蕃盛政が、衆目の中、斬首されたのが、その岡本池のたもとでした。刑死の後、盛政の首は京・六条(三条?)河原に懸けられました。


 一方、その胴は岡本池のたもとに埋められ、祠を建てて供養する事を秀吉が命じたと伝わります。地元ではその場所を「玄蕃塚」と呼び、地元民により供養され続けたと『宇治市史』などに書かれています。その地は、現在の宇治市五ヶ庄日皆田(ひかいだ)に比定されますが、今は大きな住宅街となっています。昭和の初期までは畑で塚の姿もあったそうですが・・・


 地元には「げんば火」という民話も伝わり、昔より地元の方々に佐久間盛政の事は周知されていたそうです。


 これらの事や、首のその後に付いては、以前のブログに詳しく書いていますのでぜひご覧下さい。