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 そもそも中川講の由来は、どのような経緯から始まったものなのでしょうか?


 中川瀬兵衛清秀が、賤ヶ岳ノ合戦の折りに大岩山で自害した直後の事を書いた記録が残されています。それは天保三年(1832)に岡藩に出された願書に書かれています。少々長いですが下記に載せます。


 「賤ヶ岳合戦の砌、私供郷内字名大岩山に御城を築なされ、天正十一年癸未四月二十日中川瀬兵衛様、右の御場所に於いて御逝去なされ、その節私供村方の内で頭立った者供十二人御召出なされ、御尊骸の御番大切にするよう仰付なされた。

 しかし合戦中のこと故陣中に於いて御番出来難く、よって十二人の者申し合わせ郷内の中二十五、六町東山字名小屋ヶ谷の奥へ、ひそかに御尊骸を負って参り奉り木の葉にて矢倉形を造り納め奉り大切に七昼夜の間御番仕った。則ち其の場所只今も矢倉作りと号している。

 ほどなく合戦も静まり、よって御逝去の御場所大岩山へ御尊骸御供仕りお納めしてお弔致した。それにより私供十二人は壱番之御焼香を仰付けられたとの趣先祖より申伝えている。

 尚又御褒美として御墓所の引続き地方の山を、太閤様より頂戴致した。則城山と号し無年貢にて、只今に十二人取持ち居り、従来よりの証拠と怎恐存じ奉ります」


 地元の人々との所縁を事細かに書いて、源介と八平の二人の代表が、遥々豊後・岡(大分県竹田市)まで願書を持参したようです。