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 先月、岡山の林原美術館で公開された長宗我部元親の文書の事は、二・三日前のブログに書きました。


 信長の四国攻略直前、元親と明智光秀の家臣で、斎藤利三の弟、元親の義兄である石谷頼辰(いしがい・よりとき)との交渉が頻繁にあったそうです。


 その中で書かれた、天正十年五月廿一日付斎藤利三宛の元親が信長の要求を呑む内容の書状が今回注目されているのです。


 作家・明智憲三郎氏の持論である「土岐一族の将来安堵と四国攻略阻止」と関係して来るような気もしますが、この元親の意向は光秀を通して信長に伝わらなかったのでしょうか?


 何故、四国攻めの計画に中止などの影響が出なかったのでしょうか?


 本能寺ノ変までには十日もあったはずですが・・・・・


 光秀は土岐氏や長宗我部氏の為だけに行動を起こしたのでしょうか?


 私はもっと大きな背景があった気がします。


 『隔冥記』によると、当時の朝廷の武家伝奏であった勧修寺晴豊の子で、京・鹿苑寺(金閣寺)の住持である鳳林承章が、後の江戸期に毎年必ず光秀の命日に供養を続けていました。


 これは晴豊と光秀の個人的な関係だけではないように思います。