当時の改易について詳しく説明したいと思う。
改易は慶長五年(1600)の関ヶ原ノ合戦の大規模な戦後処理に始まり、幕末までおよそ260年間に360余家が取りつぶし、あるいは減封処分されたと言われる。とくに家康、秀忠、家光の三代の間に処分された大名は224家、没収総高は12、108、950石にものぼり、その内の175家は外様大名で多くは豊臣系の大名であった。没収された諸大名の所領は、そのほとんどが徳川一門の親藩や譜代大名に与えられ、幕府直轄地(天領)や旗本領となったのである。
因みに、私の本家に当たる飯山藩・佐久間家の場合も、寛永十五年(1638)、最後の藩主となった三代佐久間安次がわずか九歳でまさかの急死、それを生前の家督相続者の届出義務を怠ったとの理由で、家光により容赦なく処断されたものであった。長沼藩・佐久間家の場合は、元禄元年(1688)、徹底的な「賞罰厳命政策」で知られる五代将軍・綱吉の時で、藩主・勝茲の将軍に対する不敬との理由だが、短気で偏執狂的性格と言われた綱吉のせいかとも思われる。後の播州赤穂・浅野家に対する処置の仕方からも想像されるが、運も悪かったような気がする。
やはり、改易とは幕府領への収公目的を第一とする政治的な手段であったのであろう。