一色義直の娘は山名宗全の三男・勝豊に嫁していました。長男・義春の奥方が宗全の長男・教豊の娘であった二重の関係もあり、義直は大将として山名方西軍に味方したのです。若狭の武田氏と丹波の細川氏は東軍に味方していました。
五月二十六日、京の義直邸が東軍・武田信賢や細川成之に攻められて炎上しました。義直に従ったのは、弟の義遠・政氏・政煕ら丹後、北伊勢、尾張、土佐の五千騎でした。しかし、三河の同族でした東条国氏などは東軍に付き、一色領の今富庄は武田に奪われてしまいました。五月には東軍・土岐世保が北伊勢に攻め込みます。六月には西軍・但馬の太田垣宗朝ら丹後・但馬勢が援軍として上洛しようとしましたが、途中の夜久野原で東軍丹波の守護代・内藤貞徳と激戦となり、西軍が勝利しました。応仁二年(1468)十二月には将軍・足利義政が西軍に味方した義直の官位を剥奪しました。
文明元年(1469)丹後国が武田信賢に与えられましたが、なかなか入国できず、翌年に四度目の合戦を経て、ようやく入国できました。一色勢は但馬に退きました。武田信賢は丹後守を称し、北伊勢は北畠政郷に、三河は細川成之に与えられました。しかし、義直の弟・義遠はこれを譲らず、弟の政氏を幡豆崎へ派遣して東軍に組した東条国氏を討ちました。しかし、政氏は知多の大興寺で討ち死にしてしまいます。
文明三年(1471)六月、武田信賢が卒したので弟・国信が丹後守護を継承し、守護代に逸見宗見が任じられました。文明五年(1473)三月、山名宗全が卒し、五月には細川勝元も死にました。「応仁ノ乱」も休戦状態となり、翌年の文明六年(1474)四月、宗全の子・勝豊と勝元の子・政元が和解してこの大乱も集結したのです。しかし、丹後は武田勢に占拠されたままでしたので、この後も一色氏の反抗が続く事となりました。