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 この金沢御堂の戦いは、佐久間盛政軍による大手口からの力攻めが主でしたが、抵抗も激しく、なかなか御堂内に侵入する事ができませんでした。


 当時の御堂は、現在の小立野台地の一番端に位置していましたので、坂の下から上に攻め入る形になり、守る方が大変有利だったようです。


 一方、大手口の反対側から御堂内に食料などを搬入する間道があり、門徒衆により利用されていました。現在の兼六園側から金沢城公園に入る石川門口です。


 金沢市の山間部に瀬領町という所があります。当時、そこの門徒衆により、食料の搬入がされていたそうですが、どういう経緯があったのか、佐久間側に間道の存在を教えたと伝わります。門徒衆側も一枚岩ではなかったようです。


 その結果、盛政軍が間道を使い御堂内に侵入、勝利を収めたと言われています。


 戦後、御堂を修理し、防御を強化して、盛政が金沢城として居城したと言われます。その折に、御堂の弱点となった間道のあった台地に大きな堀切を設けます。後に蓮池堀と言われますが、現在の兼六園と石川門の間にある百間堀通りの事です。


 その折の工事に、門徒衆を使い、完成後に全員銃殺したとか、御堂の首謀者を捕え、犀川で斬首したとかの伝聞がありますが、実際はどうだったのでしょうか・・・・・


 後の、前田利家の金沢城入城後、利家も盛政がいた御堂跡をそのまま使います。その折に、御堂の天井の桟に一体の阿弥陀仏が縄でくくられているものを発見します。門徒衆が退散する時に、隠して行ったものだと伝わりますが、後に、利家の奥方・まつの守り本尊となったそうです。



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 現在の百間堀通りです。左手が兼六園、右手が金沢城公園石川門口になります。


 



 


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