天正五年九月十五日(上杉謙信書状・恵林寺所蔵文書)
上杉謙信が、能登畠山氏の七尾城を陥落させました。ついで加賀に進み、同月二十三日夜、湊川(手取川)で織田信長軍を撃破しました。この時に多くの織田軍将兵が溺れ死んだと伝わります。この湊川以南の領有は何とか織田方が保ちました。能美郡御幸塚と江沼郡大聖寺の城を修築し、それぞれに佐久間盛政と柴田勝家の軍兵を置きましたが、本願寺の許しを得た加賀門徒衆が度々夜襲をかけたそうです。
天正六年二月十日(上杉謙信書状)
謙信が、下総の結城晴朝に、越中・能登・加賀三カ国を制圧したと誇示したものです。
天正六年三月二十七日(織田信長黒印状)
信長から羽柴秀吉宛ての書状です。加賀の国から注進された、上杉謙信が死去したという風聞を秀吉に知らせています。
天正六年四月十二日(本願寺顕如消息)
顕如が、加賀の山内門徒衆と鈴木出羽守に、越後国内の不慮の風聞を知らせています。謙信の死による内輪不和などにも動ぜず、一層心を一つにして油断なく励めば死んでも極楽往生すると書いています。