柴田勝家の子供たちについてですが、いつも問題になるのが実子がいたのかという事です。結論を言いますと判りません。色々な所に系図や、先祖の由緒書きが存在しますし、お墓もあり今も供養されているのです。


 一般的に伝えられている後世の系図などだけでは、判断はできないという事ですね。養子にしても姉の子(勝豊、勝敏など)や妹の子(勝安など)など何人いたのかも判りません。やはり、表だった系図に出て来ない事があるのも事実です。戦に負けた事を恥じたり、追手から逃れるために故意に隠して来た場合もあるからです。その家その家の事情を信じるしかありませんし、今もそれを誇りにして、供養しながら生きている子孫の方がいると言うのが実際です。因みに、私の家も、安政の公になっている系図には出て来ませんが・・・・・


 勝家の亨年ですが、五十四歳から六十二歳まで諸説あります。生年は大永二年(1522)から亨禄三年(1530)までの間に四説あるそうで、特定できないそうです。 利家が「親父様」と呼んで慕っていたのですから、十歳以上は上だったとのじゃないかと考えられるというのが専門家の意見です。


 佐久間盛政の亨年は、三十歳と二十四歳の二説があります。生年は天文二十三年(1554)と永禄三年(1560)両説ありますが、後説ではハッキリ判っている弟の安政や勝之よりも年下になってしまいます。盛政の娘・虎姫の事を考えると、天文二十三年説では、虎姫が盛政十一歳の時の子供になってしまい疑問が生じます。弘治元年(1555)生まれの安政と一つ違いだと聞いていますので、私は天文説を信じています。虎姫との事に関しては、中川家家譜の虎姫の年齢記述が間違っているのでしょうか・・・・?


 佐々成政の亨年も、七十三歳から五十歳までの説があり、生年は永正十三年(1516)から天文八年(1539)まで七説あるそうです。利家とライバルとの観点から、利家の一歳上の天文五年(1536)説を取る事が多いそうですが、史料的には永正十三年説の方が信憑性が高いとの事です。


 専門家の人に言わせれば、このような事は決して特殊な事ではないそうです。これらの人々は誕生の時から注目されるような存在ではなく、後年の記録や創作によって諸説が生じただけだそうです。秀吉や利家にも同じ事が言える訳です。利家と秀吉が同い年であったと判明したのは、偶然別の場所で見つかった神社の願文が発見された三十年前の事なのです。


 今後の専門家による他の調査過程で、これらの事が偶然ハッキリするかもしれませんね・・・