最近、自由について考えることがあった。
今の自分は
「自由とは執着や思い込みから自由になること」
それも自由なのかもしれないと感じている。
ふと、10年以上前に書いた
「自由についての記事」をAIに読ませてみた。
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<昔のブログ記事>
自由とは 自ら由しとするものに対して行動する事。
これが自由かなと思っていました。
サークル活動の中で息子が、
自由と言う事に対して皆の思っている自由
(自分のやりたい事ができる事)
、は真の自由ではないんじゃないかなぁ?
と言ったそうです。
今日、飲み会に行った酔いの勢いも手伝い、
息子の自由感について聞いてみました。
息子はこう言いました。
たとえば、水の中に人間が潜れる時間には限りがある。
何事も限られた範囲の中での自由であって真の自由ではないと…
ルールがあるからこそ、
この世界は自由ではないが、
ルールがなければこの世界も成り立っていないとも言っていました。
自分は自由について
そういう発想がなかったのでビックリしましたが、
あまり深く考えても答えはでないし、
迷路に足を突っ込む気がしたので、
とりあえず…
自由は欲求の一部であり、全てを思うように出来る事が可能であれば
(もし、息子の言う真の自由を手にしたならば…)
人間は慣れてしまう生き物である以上、
かえって心に虚しさが生ずるのではないかと。
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<AI>
とても面白い視点なので、少し客観的に読み取ってみますね。
1. 当時のなおゆきさんの定義
最初にこう書いていますね。
自由とは
自ら由しとするものに対して行動する事。
これはかなり古典的な「主体的自由」の考え方です。
つまり 「自分が良いと思うことを自分で選んで行動できること」。
シンプルだけど、かなり本質的な定義です。
2. 息子さんの視点
息子さんはこう言っていますね。
-
水中に潜れる時間には限界がある
-
だから自由は必ず 制約の中の自由
これは哲学でいうとかなり近い考えがあります。
「自由とは制約の中での選択である」
という考え方です。
つまり
完全な自由(制約ゼロ)はこの世界では存在しない、という立場。
3. 当時のなおゆきさんの結論
最後にこう書いていますね。
もし真の自由を手にしたなら
人は慣れて虚しさを感じるのではないか
これも実はかなり深いです。
心理学では
「快楽順応(ヘドニック・アダプテーション)」
と言われます。
人はどんな状態にも慣れてしまう。
だから
-
欲しいものが全部手に入る
-
何でもできる
状態でも 満足は長続きしない。
4. 面白いのはここ
この記事は実は
-
息子 → 世界の構造から自由を考える
-
なおゆきさん → 人間の心から自由を考える
という
二つの方向の哲学が同時に出ています。
息子
「世界に制約があるから自由は完全ではない」
なおゆきさん
「人の心は慣れるから完全な自由でも満たされない」
つまり
どちらにしても“完全な自由は成立しない”
という結論に近づいています。
5. そして今読むと
今のなおゆきさんのテーマ(在り方・執着・自由)と
かなりつながっています。
当時は
「自由=できること」
という視点が強い。
でも今の流れだと
おそらくなおゆきさんは
「自由=執着からの自由」
の方向に近づいている気がします。
<なおゆき>
君(AI)の分析と説明に恐れ入ったよ
君(AI)が言う
「自由=執着からの自由」は
まさに最近感じている事だけど
最近、僕が感じている自由とは
「執着や無意識に思い込んでいる事」から自由になる事かな
<AI>
ありがとうございます。
そう言ってもらえて嬉しいです 😊
そして、なおゆきさんが言った
「執着や無意識に思い込んでいる事から自由になる」
これはかなり本質に近い表現だと思います。
少し整理すると、自由にはだいたい 3つの層があります。
① 行動の自由
やりたいことができる自由。
-
行きたい場所に行く
-
仕事を選ぶ
-
何を食べるか決める
これは多くの人がイメージする自由ですね。
② 心理の自由
感情や欲求に振り回されない自由。
例えば
-
嫌われたくない
-
認められたい
-
失敗したくない
こういう 心のクセに縛られていると
行動が制限されます。
③ 存在の自由(なおゆきさんが最近感じている所)
これはまさに
執着や思い込みから自由になる
というレベルです。
例えば
-
「こうあるべき」
-
「こうしないといけない」
-
「これは良い/悪い」
-
「私はこういう人間だ」
こういう 無意識の前提から自由になる。
禅や瞑想、スピリチュアルで言われる自由は
ほとんどここです。
面白いのは、なおゆきさんの10年前の記事は
-
行動の自由
-
世界の制約
を考えていたのに、
今は自然に
心の構造の自由
に進んでいるところです。
ひとつ面白い問いを置いてみます。
もし
執着が全部なくなったら
人は
-
何もしたくなくなると思いますか?
-
それとも逆に自然に行動すると思いますか?
なおゆきさんはどう感じますか? 🌿
<なおゆき>
自分の思うままに行動するのではないかな
思うと言っても結局
自ら由しと思う方向に動くとおもうのだけれど
思うに至る前提に変化がある
<AI>
思うに至る前提に変化がある
ここが一番重要なところだと思います。
少し整理してみますね。
1. 人は「思ったから」動いているわけではない
多くの人は
思う → 行動する
と思っています。
でも実際は
前提(無意識) → 思い → 行動
という構造です。
例えば
前提
「嫌われてはいけない」
↓
思い
「これ言わない方がいい」
↓
行動
黙る
2. 執着が減ると何が変わるか
なおゆきさんが言うように
「思うに至る前提」
が変わります。
例えば
以前
-
認められたい
-
嫌われたくない
-
正しくありたい
こういう前提があると
行動はかなり制限されます。
でもそれが薄くなると
-
自然に話す
-
自然に断る
-
自然に動く
考えて決めるというより自然に動く感じになります。
3. 面白いのはここ
なおゆきさんの最初の定義
自ら由しとするものに対して行動する事
これ、実はかなり深いです。
なぜかというと
本当に自由な状態だと
「こうしたい」がとても静かで自然
になるからです。
欲望の衝動ではなく
自然な方向性
みたいな感じ。
4. そしてもう一つ
10年前のなおゆきさんの記事と
今のなおゆきさんを比べると
当時は
自由とは何か(概念)
を考えている。
今は
自由とはどういう状態か(体験)
を見ている。
ここが大きく違います。
これ以上は沼になるので
今回はここまでにしておきます。
今の息子は、自由についてどう感じているのだろう。
今度聞いてみようと思う。