お越しくださりありがとうございます。
先日、いとこの旦那さんが突然亡くなって葬儀に出ていました。
いとこのお姉さんはわたしより二歳上で、ご主人さまとも幼馴染みでお互いの両親とも友人という田舎あるあるの長い付き合いの中での大恋愛でした。
いとこの子どもがまだ若いのに喪主になり、しっかり喪主をつとめ、話をしていて涙が出てきました。
突然の別れに共通の友人たちも連日お別れに来てくださった方もいて号泣されてました。
大動脈解離で手術は成功したけれど他の臓器がダメになったらしいです。
式の間、泣きじゃくる子どもの背中をずっとさすっていて、いとこはしっかり振る舞っていました。
まさよさんの本
『死についてあなたに知ってほしいこと、魂のやくそく』をいつか落ち着いた頃に手渡したいと思いました。
日々穏やかに時が過ぎるのを待つだけです。
焼き場で待っている間、子どもの学生時代のバイト先のオーナー夫婦をお見かけしました。
まさか同じタイミングでこんな場所でお会いできるとは思っていなくて。
子どもはこんな場所だけど、お二人のお顔が見れて話も出来てうれしかったって話してました。
やはり、出会うべき人とはどんな形であれ、出会うようにできているのだと感じました。
もし、宮島でバイトをしていなかったとしても、子どもの職場で出会っていたかもしれません。
子どもと同じ職種の方にとてもお世話になったとオーナー夫婦もいとこの家族も話していました。
皆さまの
ご冥福をお祈り申し上げます🙏
そして
いとこのお兄ちゃんは
おじいちゃんになっていたみたいで赤ちゃんの泣き声の動画をまわりの人に見せていたらしいです👶
別れと出会い
生きているもの
いつかはかえる
それの繰り返し。

母から県外に住むいとこから国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に祖父母の手記があると教えてもらったから行ってきてコピーをもらってきてほしいと頼まれました。

今まで祖母から当時の様子は唯一わたしだけ聞いていました。
昔は廿日市市も平和学習があり小学校で八月六日の登校日に、被爆者から体験談を聞かせていただいてたり、『人間をかえせ』の映画を観たりしていました。

それから夏には祖母に原爆の話を聞いていました。
祖母も当時は誰にも話した事がないのだけれどって言いながら、わたしにだけ聞かせてくれていました。
その後も誰にも話さなかったみたいで(誰も聞いたら駄目だと思い聞かなかったからか)
わたしだけ聞いていました。
わたしが結婚決まった頃で祖母に原爆の話も聞かなくなっていた頃に今回の話がきていたみたいです。
平成七年
1995年に
『被爆体験について』の
手記を残していました。
誰かに伝えていかなければって重い腰を上げたのかと思います。
他の方の手記も読ませていただきましたが、思い出したくないから何も書きたくないって書かれてる方が多い中、二人はしっかりと残してくれていました。
読みながら
一人涙していました。
祖父母のなつかしい字と、わたしに話していた話がそのまま残されていました。
祖母の話はよく聞いていたのですが、祖父は話してくれなかったので聞いた事はありませんでした。
祖父の手記で赤ちゃんが死んだ話など記されていましたが、祖母の手記には両腕を骨が見えるほど怪我していたので隣の奥さんにお願いして瓦礫の下から赤ちゃんを助け出してもらった事は書かれていましたが後日亡くなった事は書かれていませんでした。
亡くなった事実を書きたくなかったのだと思います。
助け出してくださった隣の奥さんに感謝します。
水をほしがる人に水をあげたかったけれど水をあげたら死ぬからあげるなと言われて、自身も両腕を怪我しておんぶひもで赤ちゃんを背負っていてどうしようもできなかったた話など。
火の粉が飛んできて赤ちゃんが火傷するので川で布団をぬらして赤ちゃんにかぶせていた話など。
両腕怪我していたけれど、どうやって布団をかぶせたのかとも思いましたが母の愛だと思いました。
祖父母の見た景色が白黒じゃなくカラーだったのだと。
色のある世界でおこった惨劇でした。
まるで地獄絵図のようだっただろうと思います。
学徒動員で働いていた方や兵隊さん、一般人、多くの方が一瞬で亡くなられたと思います。

















































































