幼いころに受ける言葉の暴力について昨日お話しましたが、

言葉による洗脳も身近にありますよね。

一番多いパターンは
「○○なんだから」
という、肩書や役職を与えられてしまうパターンだと思います。

私の場合は
「お姉ちゃんなんだから」
という洗脳をされていました。

大人たちは洗脳したつもりはないでしょうが、これが結構効くんです。

女の子なら私のように
「お姉ちゃん」
と呼ばれることによって

小さなお母さん

と例えられるように、年下を守り母親の仕事を手伝います。

男の子なら
「お兄ちゃん」
でしょうか。

強くなって、下の兄弟やお母さんを守るんだよ、と言われる。
それによって、戦隊ものの真似をしたり父親と対決をしたりと、

強さをアピールしていきます。

「お姉ちゃん、お手伝い助かるよ」

といわれるたびに、下の子の面倒をみたり、大人の手伝いをすることが嬉しくなります。

「お兄ちゃん強いね」
といわれるたびに、自分がみんなを守るんだ、という責任感が増していきます。

これはこれでいいのです。

ですが、困ることもあるのです。

私の場合、父と別れて暮らすようになり、母は働きに出ました。
日中も夜中も働きに出た母の不在中は、弟と二人で過ごしていました。

そんな時私は、母や祖母、親戚からこう言われたのです。
「お姉ちゃんなんだから、しっかりしなくちゃダメだよ」

そこで私は
「お姉ちゃんはしっかりしなくちゃダメなんだ」
という洗脳を受けたのです。

8歳のお姉ちゃんは、しっかりしなくちゃ!と自分を鼓舞します。
寂しくて泣く、お腹が減ったとぐずる、遊びに行きたいとわめく弟。
私だって同じ気持ちでいっぱいです。

ですが、しっかり者のお姉ちゃんは泣きたい気持ちを抑えて、弟を慰め、あやし、遊び相手になるのです。

この「お姉ちゃんなんだから」は、生涯にわたって影響する言葉だと私は思っています。

小学生でも中学生でも高校生でも、弟が何かいたずらをする、お金を盗む、暴言を吐くなどしても
「お姉ちゃんなんだから我慢しろ」
といわれてしまう。

母に叱られるたびに我慢してはいましたが、何度か爆発したこともありました。


「お姉ちゃんばっかり、なんで我慢しなくちゃならないの?」
下に生まれりゃ好き勝手なことしていいのか?
理不尽な目に遭っても、年長者は許さなきゃいけないのか?


何度も母に抗議しましたが、改善されることはありませんでした。

そして大人になってからも、
「自分は長女だから、親の面倒をみなくてはいけない」
という新しい洗脳が始まりました。

だから、30代そこそこでも母にお金を仕送りしたり、高価な電化製品を買ったり、

クレジットカードを渡して好きにお金をつかわせたり、ということをしてしまったのです。

男性だったら、
長男なんだから、親と同居は当たり前
という洗脳でしょうか。

自分の将来のことも考えられないうちから、親の面倒を見ることを洗脳される。
小さいころから
「お姉ちゃんなんだから」「お兄ちゃんなんだから」
と洗脳され、長女であること、長男であることを自覚させられ、

親や家のことは自分が何とかしなくては、と無意識に少しずつ刷り込まれてきたのです。

このことが成人後にどんな影響を与えるか、自分のケースで考えてみました。
まず、結婚相手に悩みました。

私と結婚したら、もれなく母が付いてくる。
まずそのハードルがあり、今後は経済的な支援も必要になる。
そんな私を、というか状況を、受け止めてくれる男性はいるのか?

そう考えていた私は、自分が本当に好きな人というより、経済的に余裕のある人、

理解のある人を求めるようになりました。

そして経済的な問題です。

母が定年後、話があると呼び出されました。
再婚でもするのかとワクワクしながら行くと、毎月お金を支援してほしいと言われました。
いくら?と聞くと、いくらでもいいからできる範囲でと。

私は困りました。

経済的に余裕がないわけではないけれど、今じゃないと思っていました。
今まで継続的にお金やモノで支援してきたのに、母はそのことにお礼を言うわけでも

感謝をするわけでもなかった。
そして、それはお前が勝手にしてくれたこと。
そうではなく、自分が望むもの=お金をくれ。とはっきり言われた気がしました。

これにはショックでした。

たとえ自分がやりたくてやったとしても、それは一方通行の片思いだったんだ、

現実を見せつけられた気がしたのです。

そして、生活の世話です。
どこかに行く足代わり、買い物を頼まれるメイド替わり。

それでも、言ったことはやってほしいけど、でもそれ以上は踏み込むな、というサインを出す。

お姉ちゃんなんだからという言葉は、お姉ちゃん自身を洗脳するだけでなく、

まわりに親や兄弟に対しても甘えを生みます。
お姉ちゃんなんだからやってくれるだろう、聞き入れてくれるだろう
ひいては、
して当たり前
になっていくのです。

「お姉ちゃんなんだから」は、大人に都合のいい言葉であり、

子供に一生十字架を負わせる言葉だな、と実感しています。

そんな私は、最近その十字架を下ろしました、

母に病院の送り迎えを頼まれた際、
「娘なんだから親の面倒を見るのは当たり前」
といわれました。
その言い方に疑問を感じ、
「散々面倒見ては拒否してきたくせに、今さら都合がよすぎるのではないか」
と返したところ、
「もうお前には一生親の面倒をみさせない」
と言われたのです。

そこで私は、娘の在り方を考えました。
娘としてどうあるべきか。どう対応していくべきか。

私はもう、お金のことも生活のことも、よくやってきた。
病院の送り迎え、買い物の付き合い。
それは娘でなくてもできること。

だから考えた挙句、娘にできることは
手術の同意書を書くこと

母のための保険に加入すること
と考えたのです。

命にいざという時が来たら、娘として見捨てずに助けよう。
でもそれ以外のことは、自分でもできるし、公共のサービスもあれば弟もいる。
私以外でもやってもらえる。

私は娘として、こういう在り方をする。

そう決めて、娘という十字架を下ろしたのです。

みなさんの中にも、
「お姉ちゃんだから」「お兄ちゃんだから」「娘だから」「息子だから」「母親だから」「父親だから」
という洗脳をされている方がいらっしゃると思います。
そしてそれが十字架になっても、下ろすことを許されない方もたくさんいらっしゃるかと思います。

そんな時は、まず、自分の在り方を考えてみてください。
そしてその十字架を下ろすという選択をしてもかまわない、ということを忘れないでください。

自分のことは自分で決める。
自分のことばで決めていいのです。
自分がそのまま行ってしまえば、次の世代にもまた、その洗脳をすることに繋がります。
自分にためにも、そして同じような苦しみを受け継がせないためにも、

どうか自分のことは自分のことばで決めてください。

個人セッションは初回無料ですので、気になったらお気軽にご相談くださいね。

 

 


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