8時21日はほぼ毎年母成峠の戦いの戦死者の慰霊に行っている

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151年前、新政府軍は会津藩を攻め滅ぼすために白河、二本松と抑え、会津藩領まであと少しまで迫っていた

対する旧幕府軍と会津藩の同盟は必死で抵抗したが新政府軍の新兵器と軍勢に押され、籠城戦寸前まで追い込まれていた

二本松が落城した際に母成峠から会津藩領に侵攻されるのを恐れていたために兵力をここに集中した

大鳥圭介と土方歳三の指揮する幕府伝習隊と、斎藤一が指揮する新撰組もここに加わっていた

しかし兵器、兵力に勝る新政府軍はこれをやすやすと突破した

以前にも書いたが、長州の会津憎しは常軌を逸していた

東軍戦死者の埋葬を禁じ、長きにわたってその死者の亡骸は野に放置された

異臭を発し、朽ち果てた亡骸たちは鳥や獣の餌となった

見かねた地元の住人は新政府軍の駐留している役人の目を盗んで亡骸を回収し、密かに埋葬した

その場所は100年以上秘密にされ、地元の一部の人間にしか知らされていなかった

しかし昭和53年、
研究者がこの場所を突き止め、慰霊碑を建立した

以来、8月21日に毎年慰霊祭が行われるようになった

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ここに掲示してある説明文には、土方歳三と斎藤一が新撰組を指揮したとあるが、これは間違い

土方は市川鴻の台(国府台)に集結する以前に旧幕府軍の指揮官となっている

土方は新撰組を斎藤一に託した

この母成峠の戦いで敗走する際に斎藤一は「会津を見捨てることはできない」と言って土方らと袂を分かって会津に残ったとあるが、土方らと喧嘩別れしたのではなく、既に旧幕府軍の指揮官となっていた土方は会津は斎藤に託し、自分は庄内藩に援軍を頼みに走った

しかしすでに恭順を決めていた庄内藩は土方を門前払いにし、城の中には一歩も入れさせなかった

既に新政府軍は会津藩領内に押し寄せていたため、戻ることもできない土方は、仙台に行き榎本武揚らと合流し、戦場を函館に移すのである

この後斎藤一は会津藩士として過ごし、青森まで会津の人たちと行動を共にしている

西南戦争では警視庁として西郷らと戦い、裏切り者の薩摩に借りを返している