やっと歴史記事いけるー!泣




前回の、歴史記事の前に多分ショックすぎて

悲しすぎて、思い出したくなくて

封印していた事がありました




純粋に、ただそれだけの理由



自分にとって嫌だから、先の内容に進んだんだと思う




その年は




まさに、私の父方の祖母が亡くなった年だった




最愛といってもいい程の、母代わりで育ててくれた祖母だった




私の今作っている料理のほとんどが、祖母の味といっても過言ではないくらい。



密だった。



本当に。




祖母との思い出は



3,4歳の頃は、花好きな祖母が家の庭いっぱいに季節ごとの花を植えていて

春に、チューリップが一面に咲く黄色や赤の花々の中で

写真をたくさん撮ってくれた。


ほかにも、芝桜がとってもキレイだった。





幼稚園に入ってから、当時は市営バス登園だったので

そこまで、祖母がママチャリで送ってくれて

後ろに乗るのが、行きも帰りも最高に楽しかった。

途中に坂道があって、そこで勢いがつくのが

たまらなく好きだった。



幼稚園の遠足も、水族館へ行く為に

調理師だった父と、当時一緒に暮らしていた叔母が

朝早くから、私の為に祖母と3人で

父と私しか食べないのに、それはそれは大量に!!


サンドウィッチから、俵型のおにぎりから

大好きなフルーツたくさんいっぱい入れてくれたり(なんといっても、うさぎリンゴが忘れられなかった)


めちゃくちゃ幸せに感じた。




小学校1年生の時は

長距離がもの凄く苦手な私が、祖母の為に

3クラスあるなか女子だけで走って

頑張って3位になった。



最後の表彰の時、なんで最後の最後で抜かれたんだろうって

1位じゃなきゃ、意味ないんだよ!!って

めちゃくちゃ泣きそうになって、下向いてた




学生時代、賞状をたくさん貰う為に

祖母と祖父の事を思って、必死で頑張った。



ただただ、安心する顔が見たかったから。


喜んでる顔が、何よりの私のパワーになった。




代表も、活躍するのも全部全部

実家のため、ただそれだけだった





料理は、いつしか味噌汁担当は私になった。



別に嫌いじゃなかったし、むしろ祖母の台所に立つ後ろ姿が大好きで

味噌汁は、めんどくさがりな祖母が単純に

味噌の量とダシの関係が、面倒になっただけだった(笑)




そんな私の、子供の頃の唯一の願いはただひとつ。



それは



その祖母がいなくなりませんように。って



ただ、それだけだった。



小学生の頃は、本気で祖母が亡くなったら

自分も絶対に死ぬ!!と真剣に考えていたくらい



そんな祖母も、歳もあって病気する事も多く

他に女は私しか、家にいなかったので

大変な時期もあった。



そして更に時が過ぎ、これまでの病気とは違って

今度は、腎臓を悪くして入院した。




お見舞いにも、度々行ったが時間も人数も限られている事もあり

なかなか思うように会えない時もあった。



そもそもで、人工呼吸器を付けていたので

会話もろくにできず

調子が良い時は、会った時にお互い目で

会話できる感じだった。



目にみえて弱っていく祖母


これまで、祖母に対して思い続けていた気持ち


目の前にいる祖母が可哀想すぎて、無理させたくない気持ち



ぐちゃぐちゃだった




気持ちがずっと不安定なまま、お別れの時が訪れた




最後の最後には、人工呼吸器は外されて

とてもとても苦しそうだった



家族が、祖母のまわりを囲むなか


なぜか、祖母の顔が私を向いていた



祖母の最後の最後




本当に呼吸が止まるギリギリで



わたしに向かって口パクで一生懸命何かを伝えてきた



なんと言おうとしていたのか



なんて伝えたかったのか




私が死ぬまで、最悪死んでも

一生ずっと永遠に、考え続けなければいけない事