サムノムから投げられた問いにヨンは笑って腕を組む。


「知りたいか?(笑)」


 今、世子だと教えたらどんな顔をするだろうか。


「はい、知りたいです。だって内官だったり別監だったり…」


-そうか、私の事が気になって仕方ないのだな、やれやれ(笑)-


「今日はまるで遊び人…」


ー誰が遊び人だっー


 ムッとしてサムノムを見る。


「………くれぐれもお気をつけ下さい」


 サムノムが声をひそめた。


「………何にだ?」


「ぶらぶら遊び歩いてばかりいると、そのうち大目玉を食らいますよ!」


 真剣な顔で言うサムノムに思わず笑ってしまう。


「もう! 友として忠告してあげてるのに真面目に聞いて下さいよ! まったく、へらへらしちゃって!」


 どうやら本気で言ってるらしい。


 ヨンはたまらず吹き出した。


「あきれたな…(笑)」


-世子である私を叱る者などお前くらいだ-


 笑いながらサムノムに近付く。


「友だと? いつから私達が友になったのだ?」


「だって、他に言いようがないでしょ?」


 一緒に笑って、一緒にご飯を食べて、一緒に眠ってどう考えたって友達以外の何者でもない。


「“友” じゃなければ私達はなんなんですか?」


ー友……ー


 言葉に詰まり笑うサムノムを見つめる。


 ヨンには判らなかった。

 

 友とはどういうものなのか…。


 サムノムがそう言うなら “友” なのだろうか?


 一瞬考えて思い出す。


 最初の関係を。


 ヨンはニヤリと笑った。


「ご主人様と犬ころ!」


 サムノムを指差すと、その手を払いのけられた。


「ああもう! 非道いな! 犬ころって言わないで下さいよ!」


 ヨンは口をへの字に曲げて笑う。


「私にはホン・ラ……ホン・サムノムという立派な名前があるんです…」


 そういえば花若様は一度も名前を呼んでくれたことがないな…。


「“3人の男” そういう意味だろ」


 こいつには似合わない気がして一度も名前を呼んだことがない。


「じゃあ、花若様はなんという名なのですか?」

 

 話は終わりだとばかりに背を向け庭を出て行こうとしたヨンにサムノムが再び問いかけた。


 言われてヨンは足を止める。


ー私の名前……?ー


 “世子様、お目覚めですか?“ 


 ”世子様がお越しです”


 “世子様”

 “世子様”



 ふと、誰も自分の名を呼ばない事に気づいてしまった。


 もう、どれくらい呼ばれてないのか…。


 そのうち、自分の名を忘れてしまいそうだ。


 自然に俯いてしまったヨンの目に庭の隅に置いてあったサムノムの帽子が映る。


「………」

 それを拾い上げ、再びサムノムに近づいた。


 自分の名を教えたら“花若様”ではなく名前で呼んでくれるだろうか…。


 こちらを見上げてくるサムノムの瞳に吸い寄せられるようにその顔をじっと見つめる。


 長い睫毛に縁取られた少し色素の薄い美しい瞳と白い肌の中に際立つ薄く色付いた唇。


「…………」


 見つめるうちにまた、あの心がざわつくような妙な感覚が胸を支配した。


 振り払うように小さく頭を振り、髪に挿さった花を見る。


-こんな物をつけてるから悪いんだ!-


 なかば八つ当たり気味に花を引っこ抜く。


「男のくせに花なんかつけて…!」


 え? 花? いつの間に?


「とにかく妙な奴だ、気に入らん!」


-訳の分からんことで人の心を乱しおって!-


「何もそんな言い方…!」


-さんざん人に絡んで来といて、今さらそんな事言う?!-


 名を明かせば身分が知れてしまう。


 教えたくてもまだ自分の正体を知られたくはない。


 ヨンはそのジレンマに少し苛立ち、サムノムの頭に帽子を被せると、その頭をベシっとはたいた。


「あ!」


 いきなり頭を叩かれてズレた帽子を直しながらサムノムは庭を出て行くヨンの背を睨らみつける。


「名前を言いたくないなら、そう言えばいいのに! ったく!」


***



 集福軒の出入口に向かいながらヨンは先程のサムノムの言葉を思い出していた。


“顔の半分でも性格がよければ、私ももう少し…”


-そうか、顔はいいとは思ってるのか…-


 ちょっと二ヤける。


「だが、“もう少し“ってなんだ? ”もう少し”って」


 性格がよければなんなのだ?


 というか…自分はそんなに性格が悪いのか?


 しかし、サムノムと出会った経緯を考えれば仕方ないともいえた。


-そうか…あいつからすれば…私は…-


 歩みを止め、庭を振り返える。


 それでもあいつは“友”だと言ってくれたのか。


 あんな風に笑って……くれるのか……。


 自分が逆の立場なら出来ただろうかと考える。

 あいつを見ると妙な心持ちになるのは、あいつに対しての罪悪感なのだろうか?


 ヨンはサムノムと出会ってから時折感じる心を乱す胸のざわめきの正体を考え、小さく息を吐き出した。


***



 人気のない池の近くの東屋でヨンは夕涼みをしていた。

 側には訓練を終えたビョンヨンが控えている。


「なぁビョンヨン」


「はい、世子様」


「……………」


 いつからだろう。


 無邪気に笑いかけてくれていた友はいつの頃からか寡黙な臣下になっていた。


「………あいつは私が世子だとわかっても変わらずにいると思うか?」


「……それは…」

 しばしの沈黙の後、ヨンの問いかけにビョンヨンは返答に詰まる。

「………難しいかと……」


 サムノムはヨンを“雲の上のお方”と言ったからだ。


「今日、あいつは私達を友だと言ったのだ」


「友 ですか…」


「“私達の関係が友でなければなんなのだ”と言われた」


「………」
 ビョンヨンは考えた。
 一方的にヨンがちょっかいをかけているだけなのだがサムノムはそれを受け入れ許している。

 筆記試験もなかばヨンが強引に合格させたであろう事はあの夜の2人の会話で察しがついている。

 そこにきて、今度は“世子様”に適性試験を無理矢理合格にされたのだ。


 本気で怒っていたサムノムを思い出す。


 王宮を出たいと願っていたサムノムが、この2人“花若様“と”世子様”が同一人物だと知ったら…。

 ビョンヨンはその先をあえて考えずヨンの僅かに見える横顔を見る。


「サムノムに…告げるのですか?」


「いずれ分かるにしても…偶然どこからか知れるよりは自分で名乗りたいのだ」


-そして、私の名を教えたい-


 “友”だと言ってくれたサムノムにそれはヨンなりの誠意だった。


-やめた方が……-


 ビョンヨンはそう思ったが、もしかしたらサムノムはそれさえも許してヨンを受け入れるのでは……という考えも捨てきれない。

 そうであって欲しいと思った。


 そして、できればヨンの側で、ヨンの味方になって
欲しいと。
 この王宮で孤独なヨンの心の拠り所になって欲しいとビョンヨンは切実に願った。

“相手が裏切らなければ、私は裏切ったりしませんよ”


 サムノムはそう言った。


 それはヨンも同じだろう。


 自分に対してもそうであるように。


 ビョンヨンは茜色に染まり始めた空を見上げ目を細めた。


 静寂が流れる東屋を池の上で冷やされた風が通り抜けていく。


 ヨンは机の上に肘を付き、拳で頭を支え、夕陽が映る池をぼんやりと眺める。


 私が世子だと知ったらあいつも変わってしまうのだろうか…。


 それとも身分を隠していたことを怒って……


「!!」


 ヨンはその可能性に気付き、背もたれに預けていた体を起こす。


ーそうだ…あいつなら有り得る…!ー


 サムノムが怒る様を想像してヨンは青ざめた。


 怒って世子に直談判しに行こうとするくらいだ。


 それが自分だと分かれば……指に噛み付かれるくらいでは済まないだろう。


ーま、まだしばらくは今のままでいいなー


 ヨンは冷たい風に体を震わせ深く息を吐いた。