2人がどこぞに消えた後、サムノムは集福軒へ向かうべく身支度を整えた。


-花若様っていつもどこに帰っていくんだろ-


 聞いたって教えてくれないだろう事は分かってるので詮索はしない。

 自分だって聞かれたくないことだらけなのに他人を詮索するのはよろしくない。


 そんな事を考えながら歩いていると目的の屋敷が見えてきた。
 集福軒は大きな屋敷の多い王宮の中で、どちらかというとこじんまりとした屋敷だった。

 通された部屋には、優しそうな夫人と10歳位の女の子が座っている。


 サムノムは膝を折って頭を下げた。


「淑儀様…此度、新たに配属された内官のホンです」


「ホン内官、これからよろしく頼むわね」


「こちらこそ」
 すると淑儀が辛そうに咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか? 淑儀様──」

 淑儀は微笑んで頷き、隣に座るヨンウン王女の背に手を添える。


「私の代わりに娘と一緒に庭の手入れをしてもらえるかしら」

 サムノムが視線を移すとヨンウン王女がニコッと笑う。


-この子がヨンウン王女様、喋れないんだっけ…-


 その愛らしさにサムノムも思わず笑顔になり

「承知しました」と頭を下げた。



***

「世子様!!」


 東宮殿ではチャン内官が待ち構えていた。

 昨夜は資泫堂に泊まるつもりでは無かったが、結果的に無断外泊になってしまった。

 今回は明らかにヨンに非があるし、資泫堂には絶対来るなというヨンの命令を守ったこともあり小言を甘んじて受ける。

 ようやく長い説教が終わり服を着替えたヨンは、チャン内官に今日の予定を聞かれふと今朝の会話を思い出した。


ー確か…今日から淑儀の所に配属されたと言っていたな…ー


 それに近頃臥せっていることが多くなった淑儀の様子も気になっていたヨンは久しぶりに集福軒を訪れる事にした。


 供を連れ集福軒に向かっていたヨンは途中であることに気が付いた。

 サムノムの配属先ということはサムノムがいるということで。

 サムノムに会うのだからと御衣は着てこなかったものの、こんなに供を引き連れて行けば確実にバレてしまう。


「チャン内官」

「はい、世子様」


 ヨンはチャン内官にサムノムが集福軒のどこに居るのかを探りに行かせた。


  ヨンのおかしな命令に首を傾げながら行って戻ってきたチャン内官はサムノムがヨンウン王女と裏の庭に居ることと、淑儀が現在床に臥せていることを告げた。


「庭か…」


 大勢で押し掛けて淑儀を起こすのは忍びないという理由を付け、ヨンはチャン内官たちを下がらせるとひとりで集福軒を訪れた。


 屋敷の入口で耳を澄ますと庭の方から微かにサムノムの声が聞こえた。


  淑儀を起こさぬようにと静かに寝所に入ると、眠る淑儀の傍らに座る。


 久しぶりに見る 淑儀は衰えぬ美貌の中にも隠せぬ心労が見て取れた。

 手を握り、じっと見つめ、ヨンは遠い過去を思い出す。



***


─7年前

 母が亡くなり、喪に服すヨンは一人東屋で母に習った琴を弾いていた。


 バチンと弦が切れ指に血が滲む。


「あっ…!」


 指を押さえて痛みに顔をしかめた。
「世子様、こちらでしたか」

 東屋に入ってきた淑儀は怪我をしたヨンを見て息を吞む。

「まぁ!」
「大丈夫だ…」
「痛くありませんか?」

「心配するな、こんな怪我ひとつで泣き言を言っていては母上が安心して成仏できない」


 淑儀は優しく微笑んだ。


「その通りです。立派な心がけですね…」


 ヨンはその言葉に俯く。


「ところで世子様…誰もいない時に伝えて欲しいと王妃様から頼まれた事があります」


「は、母上に? それは何だ?」


「“悲しい時に泣けるのも、男らしさです”と」


 その言葉を聞いたヨンは、唇を噛みしめる。

「世子様に辛い事があった時には…胸をお貸しするようにと、この私に命じられたのです」


「それは…まことか?」


 ヨンの目にみるみる涙が浮かぶ。


 淑儀は優しく頷いた。


「…ならば…淑儀よ…胸を貸してくれ……私は今…とても…辛いのだ…っ」
「はい……世子様」

 淑儀はそっとヨンを胸に抱き寄せ、その温かさにヨンは母を想い涙が涸れるまで泣いた。


***

 握っていた手をそっと上掛けの中にしまい、文机の上の書きかけの文と文箱の蓋が閉まらないほどに増えた返書を見つめた。


-いつまで見ない振りをするつもりなのだ…!-


 ヨンは静かに怒りを灯らせた。



***



 集福軒の庭ではサムノムが雑草と格闘していた。


 ヨンウンのイタズラにも気付かない。


「ああもう、しぶとい根っこですね!」
 言いながら見上げると、ヨンウンは慌てて手を引っ込め頷く。
「でも、これは生き残るためなのですよ、雑草は僅かな日光と水だけで逞しく生きなくちゃならないんです」

 ヨンウンはサムノムの髪に自ら挿した可愛らしい桃色の花を満足そうに見た。


-とても似合ってるわ、ホン内官♪-


「温室育ちの花とは大違い…」
 言いかけてふとヨンを思い出し、サムノムは笑ってしまってヨンウンを見る。
「……話してるうちに、ある人の事を思い出してしまいました(笑)」
 サムノムは口をへの字に曲げる。
「温室の花のように育ったせいか変人で小うるさいんです」
 喋るサムノムを余所目にヨンウンは目の前をヒラヒラと通り過ぎた蝶を追ってどこかに行ってしまった。
 サムノムはそれに気付かず喋り続ける。
「まったく…せめて顔の半分でも性格がよければ…」
 顔も声も財力も申し分ないのに、あの性格で台無しだ。

-“クソ宮殿”やら“半獣”と呼ばれる世子様とどっちがマシなんだろう-


その時ふわっと良い香りが漂ってきた。 


ーあれ? この匂いは…ー


「よければ、なんだ?」


「もしそうだったら私も、もう少し…」

 “好きになってあげるのに” と言いかけて、声のした方を見るとヨンが立っていた。


-また出た!!-


 驚いて思わず尻餅をつく。


 ヨンはこちらを向いたサムノムの姿を見てドキッとした。

 そして髪に花を挿したサムノムを“可愛い”と思ってしまった自分を否定する。


-だから、なんでだ?! 男ではないか!!-


「は、花若様がここに何の用ですか?」

 土をはたきながら立ち上がる。


-ほんと、どこにでも現れるんだから!-


 ヨンは少し頭を振り、気を取り直してサムノムを見る。


「お前こそ、ここで何を?」

「もちろん仕事ですよ、決まってるでしょ」


 仕事? こんな庭で何の仕事だ?


 これまで内官の仕事になど興味を持たなかったヨンはサムノムの言う “仕事” が分からず、どんな事をしているのかと辺りをキョロキョロと見回した。


「それにしても…一体、花若様は何者なんですか?」