「ウルッときた時は泣いて下さい…」

 熱い目で自分を見つめながらそうのたまった男にヨンはパンっと扇子を畳むと眉をひそめた。
「……何?」
 挑発したつもりなのに、それをあっさり流した男にその意図がまったく読めなくて少し困惑する。

 まず、当人でない事を聞くのが普通ではないか?

 しかし、サムノムはドッコの様に直前になって代理を頼むような意気地のない事はせず、勇気を持ってこの場に来たこの若様に敬意を払う事にした。

ーまさに禁断の恋…さぞお辛かった事でしょう…ー

 サムノムは心の距離を物理的に縮めようと一気に近付き若様の手を取った。

 ヨンは“何だこいつ?!”とばかりに身を引くが男は手を離さない。
「案じなさるな、分かりますとも!」
 掴まれた手を引き抜き、潤んだ瞳で何故か自分に熱い視線を送ってくる男をヨンは眉間に皺を寄せて睨み付けた。
「一体何故、会おうと言ってきた。ムダだと分かっているだろうに」

 一国の王女と本気で一緒になれるとでも思っているのか。

 サムノムは深く息を吐き、東屋の外に目を向けると遠くを見つめた。
 警戒する若様の気持ちも分からないでもない。
 お互い良家のお坊ちゃんだ、当然一族中に反対されるであろうこの恋が、成就する事がないのは百も承知だろう。
 それでも会おうと言ってきたドッコが、どこまで本気なのか疑うのはもっともだ。

 それならば! 最初で最後の逢瀬くらい素敵な思い出にしたって罰は当たるまい!
 
「これは叶わぬ恋なのだと手足を縛っても慕う心までは縛れません…」
 文と同様に歯の浮くような台詞を並べ立てる男をヨンは呆れ顔で見る。

 “慕う心までは縛れない”

 本気で言っているのだろうか。
 そこまで真剣にミョンウンを想っているのか。
 恋などした事のないヨンにはその心を理解する事はできないが、このどこか芝居がかった感じが胡散臭くて仕方ない。
 それに、この男の声に聞き覚えがあるような気がするのだが、いつどこで聞いた声なのか思い出せない。

「私の望みはひとつ…」

 記憶を探っていると男がまたヨンを熱く見つめてきた。

 潤んだ大きな瞳が……気持ち悪い。

「この熱い胸の内をただ伝えたい!」
「!」
 男が迫ってきたのでヨンは思わず後退った。
「それだけでした…」
「……」
 何故、この男は自分にこんなに熱い眼差しを向けてくるのか。

 自分を通して妹に想いを伝えているつもりになっているのか?

 サムノムは黙って聞いているだけの若様に、きっと自分の熱い想いに感動しているのだろうとひとり悦に入っていた。

ーそうでしょう…さぞ会いたかったでしょう…私に!ー
 サムノムは若様の手にある扇子を奪い取る。
「?!」
「よし! 折角ですから今日だけは世間の目など気にせず生涯心に残る様な思い出を作るとしましょう!」
「……………」

ー何を言っておるのだ? この馬鹿は…ー

 ヨンの眉間に益々皺が増える。
「生涯の………思い出✨」
 男はヨンと自分の胸を扇子でポンポンと交互に叩き
「さ、行きましょう」と促した。

ー何故、こいつと私が思い出なんぞ作らねばならんのだ?ー

 ヨンは呆れて息を吐くと眉間に皺を寄せたまま首を傾げた。

 ーまぁいい、しばらく共に行動してこの男の正体を見極めてやるー


***


 連れて行かれたのは街外れの大衆食堂のような所だった。
「……っ」
ーこ…こんな所で食事をするのか…?ー
 王宮で育ったヨンにはとてもじゃないが不潔すぎる。
 サムノムは嫌悪感丸出しの若様をチラッと盗み見た。
 心に残る思い出を作ろうとは言ったが、この若様にはドッコを諦めてもらわなければならないのだ。
 恋文の内容からしてもドッコに夢中になっている様子。

 可哀相だが致し方ない。

 こういった育ちの良さげな人間は相手が粗野で下品だと大抵嫌いになるものだ。
…あくまで相手が女人の場合だが。

 この2人の場合…ま、どう考えたってこっちの若様が女役でしょう。

 サムノムは女将に雑炊とキムチを注文して席に着いた。
 料理が運ばれてくるとサムノムはわざと若様を待たずに雑炊を口に入れる。
「ここの雑炊は絶品なんですよ!」
 満面の笑顔でそう言う男に、しかしヨンは相変わらず眉間の皺が消えない。
 サムノムは身を乗り出した。
「ここの女将は若い頃、水剌間《スラッカン》の尚宮《サングン》をしていたんです!」

ー水剌間の尚宮…王宮で得た技術を民に広めるのは…まぁ…良い事だー

「意地汚い客だねぇ! キムチを何皿食う気だい、この❌❌野郎め!」

 耳を疑うような汚い言葉にヨンは眉をひそめ女将を見る。
ーこ、こんな下品な言葉を使う者が元水剌間の尚宮だと…! 王宮の恥ではないか…!ー
 しかし、何故か目の前に座る男は大笑いしていた。
「……?!」

 理解できない。

 暴言を吐かれている客達も怒るどころか笑っている。
「…??!」
「さっさと帰りな! この❌❌野郎!」
「…………っ」
 余りの言葉の汚さにヨンは耳の代わりに目を閉じた。
 理解の範疇を超えた庶民のやり取りにヨンは真剣に疑問を抱く。
「何故酷い悪態を聞いて笑うのだ?」

ーえ? 悪態? 今のが?ー

「はは(笑) ご冗談を」
「聞いているのだ、答えろ」
 どうやら本気で聞いているらしい。
「まったく…分かってないなぁ」
「?」