“世子《セジャ》様と恋に落ちるのは世の女性の永遠の憧れである”
今、巷で話題の著書『誰も知らぬ朝鮮恋愛史』の一節。
昨日ようやく手に入れたこの本を、ほぼ徹夜で読破したこの国の世継ぎである 世子 イ・ヨンは自分専用の書庫でお気に入りのこの一節を何度も読み返していた。
ー私と恋に落ちるのが女人の憧れか…参ったな…♪ー
思わず顔がニヤける。
本を閉じ、表紙を眺めた。
『著者 愛の伝道師 ホン・サムノム』
ーホン・サムノムか…会ってみたいものだなー
***
ひと月ほど前から雲従街《ウンジョンガ》で話題の店があった。
【恋愛相談承ります】
そう書かれた張り紙を見て、1人の男が勇気を振り絞り店の扉を開けた。店の中には色とりどりの布が垂れ下がり、甘い香りが漂っている。
そして若い、やけに綺麗な顔立ちの男が1人座っていた。
「どうぞ、遠慮なさらず」
怪しげな雰囲気の店内を見回し、男は恐る恐る勧められるまま椅子に座ると店主はニコリと笑った。
「今日はどの様なご相談で?」
「あー…つまり…その…今日ここを訪れたのは…自分の事ではなく…近頃、俺の親友がどうにもおかしな行動ばかり取るもんで心配になって…」
「ほぉ…お友達が。そのおかしな行動とはどんな?」
「ボンヤリしながら歩いて壁に頭をぶつけたり…」
そう語る男の額には酷くぶつけたような青痣がある。
「………」
それを見留た店主は目を細め「それで?」と促す。
「飲めもしない酒をあおって、やった事のない喧嘩を吹っ掛けたり…!」
見るとその男の拳は皮が捲れて血が滲んでいる。
店主は頷いた。
「そして、ある女の話しになるとすぐカッとなって腹を立てるのですね?」
「その通りだ!」
「“決して実らぬ恋だ、さっさと諦めろ”と皆に反対されて…さぞ胸が痛んだでしょう」
「な、なぜ分かるんだ? そうなんだよ! いや~色恋に関してはピタリと言い当てると聞いていたが、やはり噂通りだな!」
店主は「いやいや…其程《それほど》でも…」と謙遜する。
「とにかく! 俺は何も手に付かないんだ! その…女のせいで…」
男はもどかしげに項垂れた。
「分かりますとも! お慕いする想いを告げたからといって殺された者などおりません、大丈夫!」
男はチラリと店主を見る。
「ですから…勇気を出すのです!」
「勇気…!」
店主に励まされ男は気持ちを奮い立たせた。
***
男は両班《ヤンバン》の屋敷の下男《げなん》だった。
想いを寄せる相手は、その屋敷の若い娘。
相当な美人だが出掛けるその娘に「お散歩ですか?」と声をかけても男を見ようともしない。
階段で足を取られ転びそうになった娘に男が慌てて手を差し伸べ「大丈夫ですか?! お怪我は?!」と支えても、娘はチラリと男を見ただけで、何も言わず行ってしまった。
「お気をつけて!」
ーふむ…あれは逆に意識しているなー
店主はその様子を近くで見ていた。
「あれは“鉄壁女”ですね」
切なげに娘を見送っていた男は近付いてきた店主の言葉に首を傾げる。
「“鉄壁女”?」
「それほどあの方の心の壁を破るのは難しいという事です」
「それじゃ俺はどうすれば…」
「10日の間、あの方の前から姿を消して下さい。挨拶もしてはいけません。徹底してあの方の前から消えるのです」
「そ、そんな事をしたら俺の事を忘れてしまうじゃないか!」
「いつも何かと声をかけ、気にかけてくれていた男が突然姿が見えなくなって気にならない女はいませんよ」
「そ、そういうものか?」
「ええ、そしてちょうど10日目に…」
店主はニヤリと笑った。
──10日後
男は山に薪拾いに行っていた。
そして帰り道、この時間帯にいつも娘が通る道を選んで屋敷に戻る。前から娘が歩いてくるのが見え、胸をときめかせるが女は10日ぶりに会う男には目もくれず男に気付いていないかのようにすれ違った。
「………」
ーやはり俺の事など忘れてしまったのか…ー
男はチラリと上に目を向け、振り返って娘の背を見ていると頭上から大きな枝が落ちてきた。
男は娘を抱きかかえ、間一髪で娘を救ってみせた。
驚いた娘は急いで立ち上がり男に背を向ける。
「お怪我はありませんか?!」
心配する男に「何をする…!」と冷たい言葉を投げつけるが男の顔に大きな擦り傷を見つけ戸惑いを見せた。
「……そなたは…平気か?」
目を逸らしたまま男を気遣う言葉を口にする。
「はい、なんともありません、平気です!」
「2度と…こんな真似はよせ」
そう言って横を通り過ぎようとした娘の肩に男は手をかけると強引に振り向かせた。
「?!」
娘は驚いて息をのむ。
「いいえ! これからも私があなたをお守りします! 木が倒れても、石が飛んできても…人々から非難されようとも…! 私が守って差し上げます!」
娘は涙ぐみ唇を引き結ぶと男の頬を打った。
「?!」
男は気持ちが通じなかったと落胆したが
「一体…10日もの間どこへ行っていたのだ!」
娘の言葉に驚き目を見開いて娘の瞳を見る。
娘は男の顔の傷を心配し、男と目が合うとはにかんだ笑みを浮かべ俯いた。
男は長年の片想いが実った事に嬉しくなり強く娘を抱き締めた。