例えば隠者の説明が、スピリチュアル流にはこうなるようだ。↓
世の中の汚さに絶望して追われていき川や湖に身を投げたという隠者の話が色々荘子に出て来て、荘子は、彼らが他人の楽しみを我が楽しみと取り違えて使役されついに身を投げ(させられ)たのだと説く。ある論文では荘子と隠者の違いは、追ってくる何か、隠れる対象としての何かの非存在だと書いている。荘子は、何かから隠れているのではない(=隠者ではない。)
精神科の主治医は、吃音のある人が何かを回避するようになると初めて“吃音者”になるのだと言っていた。主治医も話していると結構吶る事があるのだが、吃音者ではないというわけだ。
マインド・コントロール論からすると、カテゴライズはマインド・コントロールに陥る元だ。これで言うと、例えば“発達障害者”というラベル付けを求めてしまう心理はマインド·コントロールに陥る元なのである。更に、発達障害へとマインド・コントロールしてくる対象の権力は非常にたちが悪い事が分かっているからこの場合は解除しておくにこしたことがないと私は思う。
やはり、たとえキュニコス派であってもカテゴライズはあまり良くないのかもしれないと今回気付いた。リブログ記事も書き方は違うが非常に興味深い内容だった。