私は、どこかに属そうとしては発達特性などで?常に阻まれ、禅と違い禅寺はなく、何何宗何何派にも入れず、手探りで常にその時々の現場から荘子ディオゲネスキュニコス派の道を実地で探り当て進んできた。

この、何かに属そうとする時の感覚は、そう決めてみた途端に強大な斥力が湧いてきて、味方をしてくれる立場のはずの人達がなぜか敵に見え始める。そして、場に当てはまれない事が次第にはっきりしてきて逸れていくのだ。

ある著名な方から、“未科学研究所さんは究極に不器用だな”とはっきりと言われた事もある。部活動や何何道の名がつくものはみんなダメだった。

しかし、荘子やディオゲネス、キュニコス派の思想だけは一度もそれがない。ここもまたダメだったか、という風にならないのだ。道なき道を、とはよく言われる事かもしれないがそれもまた人生かなと最近思っている。

 お前のどこが荘子、キュニコス派なんだ?とツッコミを入れてみたが、単に道なき道を行くもんだから自信が出にくく、てんでなっていない気がどうしてもしてくるだけかもしれないではないか。いや、本当にてんでなっていないのかもしれない。しかし、仮にてんでなっていないとしたところで、私にとってはこれが一番であり他の事をやるよりは色々思い付きも湧いてくるし、何より生きがいがある。運命なんだろうか。いや、まだそこまでは言えまい。

しかし、形無きに遊んで得るを見ず、とは荘子が言っている。