以前、木村敏のアンテ·フェストゥム論を引用したが、そこで兆候について出て来ていた。↓

 

分裂病の患者は、つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生きているといってよい。中井久夫氏の表現をかりれば、彼らは「もっとも遠くもっともかすかな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」。この表現にささやかな修正を試みるとすれば、分裂病者は未知なる未来の兆候を「あたかもその事態が現前するごとく」恐怖し憧憬するというよりは、むしろその事態がまだ現前していないということに恐怖と憧憬を抱くのだと言うべきだろう。すでに現前している事態に対しては、それが更なる未来の兆候として読まれるのでないかぎり、分裂病者はむしろ驚くべき無関心さを示す。

分裂病特有のこの未来先取的なありかたを、私自身は従来から「アンテ·フェストゥム的」と呼んできた。

 

この、“兆候の世界に生きている”ことは異界論に応用されている。「がんと心理療法のこころみ-夢·語り·絵を通して-」 岸本寛史著によると、兆候空間優位性として異界性が語られる。元々は統合失調症親和者の性質だとしている。兆候を敏感に感知するとは微分回路みたいなものだと説明され欠点がつらつらと書かれている。

しかし、異界的世界体験から現実を相対化出来ると私は考えているのだ。

兆候空間優位性は狩猟生活においては適応的だったとはっきり岸本寛史は書いているように、単に現代生活とされるものにおいて適応を失っているだけなのである。つまり、現実を相対化してしまって構わないと言える。兆候空間優位性の者にとって現世的現実とは相対的な価値しか持たない。要するに異界から相対化された現実世界やらに対しては、私の経験上からも言えるが、“立ち交じる”という認識しかしなくなるという事ではないか。···例えば解離性障害の全生活史健忘になった患者さんが記憶を回復して治療後の現実適応だとか社会との折り合いだとかが述べられている本の箇所で患者事例にさり気なく隠居や、やや引きこもった∼と書いてある。↓

つまり一度深く異界を経験し現実を相対化すると“気付いてしまう”という事であろう。人心掌握されずに立ち交じりたいというように変わる。昔から西洋人は、中国人は逃げる事ややらない事をよしとしてズルいとぬかしているが、西洋的である必要などかけらもないではないか。“ズルく”いこうと私なら思う。

 

※ところで蛭川立先生も荘子は老子よりも厭世的だと述べていた。↓

https://hirukawa.hateblo.jp/entry/2021/09/25/213107