小松和彦著「神隠し-異界からのいざない-」を読んで神隠しについて調べていたところ、そこでは神隠しと、失踪や家出を関連付けて論じていた。社会的死としての神隠し、共同体から出て行く失踪、共同体からの離脱と子供の自立への主張としての家出、という事だ。それで早熟な知識人ぶって吉本隆明や柳田国男等を論じていた私の同級生の元友人は中3の時だったかと思うが1ヶ月の家出をしてのけた、この事の意味が分かったように思う。異界に詳しかったであろう元友人は、当然それと家出との関係等も知っていたか勘付いたかして実行に移せたのだ。ただ単に家出願望だけに導かれての事ではないような気がする。してみると、“あの世同好会”の一員としてはやはり申し分のないフィールドワークを行ったのだと言えよう。あの家出にはその子なりに異界を追究する意義があったのであるから。しかし、元友人が本当に異界の情緒を知り得たか、又は異界が本当にその人の前に開いたかは謎である。私からすると、元友人は仙人の列子の如く、風に導かれてそこに行くが20日程で戻る(また戻らされた)ように真の自在を獲得しそこねたようにも見えている。実際に元友人は、随分後になって“仙人ならば近代的に云々”と述べていて仙人に親和性があり又、医学部を辞めた後にコンピューター学園にも入った。私の中では、仙人やら魔術家やらの知識愛好系の香りがプンプンするのだ。私はこの元友人との長年のやり取りの中でも、自分は仙人より荘子でいたいなと強く想うようになったと言える。そして仙人との違いから見た荘子像を追っている。