解離性障害で遁走したり失踪して別の場所で別人生を送る側の心境からすると、立ち交れればそれは誰であってもいいという発想が出てくるように思う。自己同一性という論拠、土台を投げ捨てて物を考えるようになると案外色々な事が崩れ去るようだ。だから自己同一性によりかかる近現代は、解離性障害の名のもとに都合の悪いことを排除しようとするのだろう。しかし、精神科の主治医は、経験もそうだが想像力が肝心だと言う。 

 

さて、想像してみると気付く事だが、解離性障害者にとっては自分=他者という他人事視点が成立してくるのだ。そして一つの身体の事を“機体”と呼ぶ。そもそも発生した多人格とは成り行きの結果である、皆それぞれの知性や趣味等を持っている。ならば更に一歩踏み込んでみよう、元の人格というのも、又、自己同一性によりかかり生きている普通の人の唯一の人格というのも成り行きの結果に過ぎないではないか?戻ると、失踪者からすれば、立ち交じれれば誰でもいいのであった。つまり、人というのはそんなもの誰でもいいのだというように私は考えるようになった。

⇀誰でもいいではないですか、立ち交じっているだけですよ。