貴方も騙されなかったんですね。↓ tokaiamaさんのブログを久々に見ましたが、これ、凄くいい記事です。

⇀結局5カ所くらいの整形外科を訪れたのだが、どこでも原因不明と片付けられた。
 ところが、旧知の山仲間である石川医師(守山区廃業)に腫れた膝を見せたら、一目で「これは痛風だよ」と指摘してくれて、一発で問題解決した。
 石川さんは、私に無償でアロプリノールを与えてくれて、それを飲み始めたら、たちまち膝の腫れが引いて、普通に歩けるようになった。

 ほぼすべての医師が、「痛風は足の親指の付け根に発症するもの」と決めつけていて、初発が膝にくる痛風に対する知識がなかったのだ。
 「ああ、医者なんて、この程度のものか……」と私は医師のレベルを思い知らされた。
医師というものは、教えられたマニュアル・プロトコルを知ることで医療に対する優越感を抱くのだろうが、自分の知らない現象を見て、その本質を見抜く力が弱いと感じた。だから、やたらに文献に頼りたがる。

 当時、私は地震前兆の宏観観測に夢中になっていて、前兆を知ることの意味は、文献知識を知ることよりも、自分の目、足、頭を使って、観察と考察を繰り返すことだということの大切さを思い知らされていた。
 医療も同じだと思った。多くの医師たちは、観察的事実に対して自分の目と頭よりも文献やマニュアルを重視しているのだ。
 
私は、学生時代、エビネ蘭の開発の蘭裕園で山本裕之という人にお世話になった。そこでは、現場のちょっとした配管工事からショーに出す花の鉢の作業から裏山の竹の伐採から、何でも手伝わせてもらった。

 
 
 
殆どの作業は慣れず、私には難しかったが一つだけ上手く出来た作業がある。裏山の一帯に、病気を持ったエビネの鉢を植え替える作業だ。鉢から自然の中に返してやる花壇を、三角形の頂点にエビネを植えていくやり方で作った。出来上がりは、世界の山本に満足してもらえた気がする。作業が終わり何日か(何週間だったか)経ち、裏山に呼ばれた。
「見てご覧。なんか気付く事はないか?」
病気持ちのエビネの花達を見た。
···
「気付かないかい?ほら、元気になった」
 
私はこれを聞いて、直截的に物を見ることは間違っていない事を知った。病気を持った花達が裏山に植え替えられて元気を取り戻していたのである。葉っぱとかの勢いに表情というものが現れている。大体、私自身が、自然の中の作業を経験する中で、随分と瘴気のようなものを払ってもらった気がしている。後日、山本さんは“未科学研究所さんがここに初めて来た時は、幽霊みたいだったぞ”と言っていた。
自然の中で作業をしていると、物を見る目に曇りがなくなるし、今、自分が間違っていないという確かな感覚がある。(普段、間違っているのかもしれない。)至らぬ考え方や作業工程も自然の中で試行錯誤される間に一度消去され新しいものに変わって力が伸びていく。至らぬ事が自然の中ではお見通しになり、どこがまずいのかが見えてくる、そして土を触る中にそれらは消えていき新しい考え方に変わるのだ。
この自然の力はと言っても過言でないと私は考える。山本さんやこの、tokaiamaさんのような自然人の話にはそういう自然の力が長年の過程で染み付いているように思えてならない。
私は今でも山本社長を老子に見立て、自ら荘子の思想をやる夢を追っている。