「哲学者ディオゲネス-世界市民の原像-」 山川偉也という本によると、ホームレス哲学者ディオゲネスには世界市民思想があった事が分かった。しかし、ここでの世界市民とは、現代のコスモポリタニズムのようなアリストテレス的世界市民の発想とはまるきり異なるものであった。現代人にとって当たり前のようになっているコスモポリタニズムだとか国際社会なんぞは要するにアリストテレスの徒の言う事なのである。(だから私は騙されないようにしたいと思う。ここにも間違い探しがあったのであるから。)

本書によると哲学者ディオゲネスとは、アリストテレス的人間観や当時の伝統·習慣を全否定し、「世界市民」という新しい理念を唱導·実践した思想家であった。少し引用しよう↓

アリストテレス正義論の最たる矛盾は、「非市民排除のアナロギア論理」に結晶している。ディオゲネスがパラハラッティンすべく眼中に置いたのはまさにこれだ。

アリストテレスの「最善の国制」やアレクサンドロス的世界帝国が「贋造貨幣」でありパラハラッティンされるべきものであること、すなわちアリストテレスのいう「中としての正義」の本質が人間の価値を測り尽くして差別化する「万物の尺度」としての「ノミスマ」(通貨)の裏面に他ならないこと、アレクサンドロスのいう「唯一の正義」が被支配者たちの額に彼が押しつけた「われ征服せり」という焼き印に他ならないことはすでに明々白々なことであった。

だが、一介の「乞食」「ホームレス」「食客」にすぎなかったディオゲネスに、その事態をどうすることができたであろうか。消極的には、ちょうど国家が定めた兵役を忌避する者たちがするように、標準的市民生活とされているものに積極的に関与することを拒否することであった。逸話二九·一によれば、ディオゲネスは、「結婚するつもりではいるが結婚しないでいる人、船旅に出るつもりではいるが出ないでいる人、政治にたずさわる気持ちはあるが、そうしないでいる人、子供を養育する心づもりはあるが、そうしないでいる人、権力者たちと一緒に暮らす用意はできているが、彼らに近づかないでいる人、こういう人たちを称賛していた」。

いま少し積極的には、「ライオンの皮を羽織ってふんぞり返っている」男に向かって「よしてくれ、勇気の衣を辱めるのは」と(四五·四)責め、「不潔な公衆浴場」と目される民会や民衆法廷を「ここで入浴する者たちは、どこで身体を洗えばいいのかね」(四七·五)と揶揄するなどして、デーモシオス(市民団)の退廃ぶりを批判することであった。

そして、もっと積極的には、アゴラや体育場など人だかりのする場所の一角に立って、「徳への捷径」や「自足」の大切さを真剣に説くことであった。(中略)

ディオゲネスは、「世間」というノミスマとことさらに「鉢合わせ」するように生きた。そのことによって彼は、「ほんの指一本の差で気がふれている」「大部分の人間」(三五·三)の一人一人に対し、「おまえは自分自身のことを気づかいながらも、自然本来(フュシス)よりも劣ったものになっていて、恥ずかしいとは思わないのか」(六五·一)と語りかけたのだ。

これがすなわち「主音を少しばかり高くして」正しい音程で歌えるように人々を導くディオゲネス流のやり方であった。そして、これがまた、とりもなおさず、彼のいう「本当の意味でノミスマをパラハラッティンする」ことだったのである。

さて、ここまでくれば、「正しい音程」という言葉によってなぞらえられていることが何であり、「本当の意味でノミスマをパラハラッティンする」ということが何を意味しているのか明らかなはずである。「正しい」とか「本当の意味で」という言葉が指向しているもの、それはディオゲネスの学説誌に現れる「唯一の正しい国家」(七二·四)でありそれなくしては「市民生活」が不可能であると言われているところの「法」(七二·二)であり、ひいてはまた「世界市民」(六三·二)としての生き方だったのである。

誤解してはならないのは、学説誌に現れる当該の「法」が既存のいかなる国家の実定法をも意味するものではないということだ。それは人為に基づくいかなる法をも意味していない。それが意味しているのは人為(ノモス)を超えた理法である。


しかし、私としてはかくも素晴らしいディオゲネスも世界市民の具体像については確立し損ねたままであった感が否めない。そこで、ディオゲネスの世界市民思想を進展するとどうなるかと言うと、“宇宙人と生きていく(宇宙市民思想)”に他ならないと私は考えている。アリストテレスの徒の戯言に耳を貸すのは辞めて宇宙人と交流していく事こそ、ディオゲネスの“世界市民”に具体像を与えるのではないかと思う。そう考えると宇宙人遭遇こそがディオゲネスの思想を正しく進展する機会なのである。