考察が深くて、思わずリブログ↓

→肉体次元とは《分離》を体験するということにある。魂の分離によって、あなたと私とか、彼とか彼らという他者が、亡霊のように歩き回るのだ。それは途方もない孤独や恐怖をもたらし、そこから怒りや憎しみや嫉妬が生まれ、激しい対立や争いが始まる。

そのようにしてますます分離体験は深まり、人と人は意思を交わすためには言葉を発明しなければならず、その言葉すら幾つにも分離し通じなくなる。あなたの魂の世界には他者しか存在しなくなり、そこには自分すらなく、なぜなら《私》を見失ってしまうからだ。

人は私という輝きを見失うとともに、地球からは光が消え、地上世界は闇に沈んでいく。

 

この記事を読んでふと想い起したのが、荘子の「人の適を適として、自ら其適を適とせざる者なり」という一節です。引用します。↓

 

荘子21 行名失己
 「狐不偕(こふかい)・務光(むこう)・伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)・箕子(きこ)・胥余(しょよ)・紀他(きた)・申徒狄(しんとてき)の如きは、是れ人の役を役し、人の適を適として、自らは其の適を適とせざる者なり。」

 

訳:狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・胥余・紀他・申徒狄は、他人の仕事をわが仕事とし、他人の楽しみを我が楽しみとして(他人に振り回されて生きた人で)、我が身の本当の楽しみを楽しんで生きなかった。

 

〔注〕 狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・胥余・紀他・申徒狄はいずれも、身の潔白を守るために自殺したり隠棲したりして、賢者として有名だった人たち。狐不偕は堯帝の譲位を避けて自殺、務光は殷の湯王の譲位を避けて自殺、伯夷・叔斉は周の武王の討伐を諫めてきかれず首陽山に隠棲、箕子は殷の紂王の暴を避けて隠棲、紀他は務光の死を聞いて自殺、申徒狄は君主を諫めてきかれず投身自殺した。

 

 いますよね~、政治とか世事、社会の事とかでがんじがらめになっている人。よく見ませんか?荘子の挙げた例は極端で分かりやすいですが、まあ、(福祉系の人なんか特にそうだと思うのですが、後、陰謀論者も顕著ですね)他人の楽しみを我が楽しみとしてしまって他人、社会に振り回され自分の楽しみを生きていない人だと思います。こうして、社会心理学やら社会学の成果、隆盛にのせられて現代知識人が称賛している生き方というのは、たいてい荘子からするととんでもない間違いを犯しているお方々なんですよね。人心掌握されないように気を付けようと思います。