リブログです。↓(この記事は面白いですよ。)作家の立ち位置、生き方からは見えやすいと思いますが、この対立幻想を解除するところはちょっと万物斉同っぽい。
今読んでいる、マルクス流の唯物弁証法的社会主義にはついぞ出てこない発想ですね。

→私がこれまで何十回と反復して読んだ本の中から、仕事にまつわる本を一冊紹介します。森博嗣(ひろし)先生の
「やりがいのある仕事」という幻想というタイトルの本です。裏表紙には、「人生の意味を取り戻そう」と書かれ、
人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だと言える。ただ一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。
と書かれ、表紙には「働くことって、そんなに大事?」とあります。第一章の「仕事への大いなる勘違い」には、こんなことが書かれています。

仕事が凄いものだというイメージを、まるでコマーシャルのように大人は作っている。実際にテレビコマーシャルになっているものもある。例えば「国を動かす仕事」とか「未来を築く仕事」とか、そういう言葉の印象だけで大きく見せる。まるでそれらが「ゲームを作る仕事」よりも「やりがい」があるかのようだ。そんなイメージを植え付けようとしているのである。しかし、国を動かすとか、未来を築くとか、それは個人の力によるものではない。そういう力を持っていると錯覚しているだけだ。権力を握るのも、大きなお金を動かすのも、仕事上の立場、つまりルール上に成り立つものであって、個人として特に偉いわけではない。「俺が国を動かした」と言いたいのかもしれないが、せいぜい「関わった」という程度のものに過ぎない。そんなことを言ったら、ほとんどの人が国を選挙を通じて動かしている。巨大な橋の建築に関わった人は、大根を毎年収穫する人よりも偉いわけではない。そういうものに「未来」や「やりがい」があると感じさせるのは、明らかに言葉だけのイメージで錯覚を誘っている。要するに「自慢できる仕事」みたいな他者の目を気にした浅ましさに過ぎない。もし、ここの仕事に差があるとすれば、それは賃金の高低くらいだろう。賃金の高い仕事は、能力が要求されたり、大きな責任を問われるものだ。高ければ高いなりにリスクがある。だから、それだけ神経を使う必要があって、体力的にも精神的にも消耗するだろう。だから賃金が高い。逆に、誰にでもできるものは、賃金が安くなる。この辺りは商品と同じだ。
精神科にも、仕事に関する悩みを抱えた若者が実にたくさん訪れます。彼らの悩みは仕事の量や質、人間関係などに分解されますが、要は仕事が楽しくないと言っている。楽しくないから具合が悪くなっているという話です。森先生が指摘している通り、子どもにとっての仕事に対するイメージは、大人たちの情報操作の産物です。「国を動かす仕事」とか「未来を築く仕事」の方が、やりがいがあって、人に尊敬されて、給料も高くて、、だから「偉い」という刷り込みを幼少の無垢な脳にザクザク刻んでいる。だから子供たちは、そういう仕事に就かなきゃならないと半ば義務のように感じてしまうのです。かなり根の深い厄介な話です。森先生は一貫して、仕事なんか何でもいい、そもそも働くことってそんなに大事なのか?というスタンスです。これは一見現実離れしているように感じるかもしれませんが、現実離れしていると感じる方の脳が「病んでいる」という考え方を忘れてはいけません。私たち大人も、その上の世代の大人から随分洗脳されて大人になっている。そこのところに気づかないと、厄介な価値観はどんどん強化されて子ども世代に受け継がれてしまいます。

 
 
この話に次のを付け足すといいかも(笑)引用します↓
 

荘子 第一冊 内篇』の「人間世(じんかんせい)篇」では、大きな木のお話が語られている。このお話は、石(せき)という大工の棟梁が弟子と共に旅をしていて、斉の国で櫟社(れきしゃ)のご神木である櫟(くぬぎ)の巨木を見るところからはじまる。そのご神木というのがとにかく大きい。それは数千頭の牛をおおいかくすほどに巨大で、幹の太さは百かかえもあり、高さは山を見おろすほどだという(すごい!)。でも、棟梁はなぜかそのご神木にほとんど関心を示さない。弟子たちがそのことをいぶかしく思って理由を訊ねてみると、あれは役立たずの木だと棟梁は答える。「その木で船をつくると沈むし、棺桶をつくると腐るし、道具をつくると壊れてしまう。つまり、使いようがないから、あんなに大きくなったのだ」

棟梁が旅を終えて家に帰ると櫟社の神木が夢にあらわれた。ご神木はお前はこのわたしを何に比べているのかね」と棟梁に語りかける(ご神木のお言葉は金谷治の訳でどうぞ…)。

 木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、大きな枝は折られ小さい枝はひきちぎられることになる。これは、人の役にたつとりえがあることによって、かえって自分の生涯を苦しめているものだ。だから、その自然の寿命を全うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。

 長いあいだ役にたたないものになろうと願ってきて、ようやくそれが叶えられたいま、そのことはおおいに役だつことになっているという。