https://news.yahoo.co.jp/byline/konnoharuki/20230525-00350707 

 

 →ー忖度まみれの政治を変えてくれる「新しい政治家」として期待を寄せる声もあります。

自分の代わりに不満を「代弁」してくれる人、政治家として社会を変えてくれる人、として期待され、「応援」されることには違和感もあります。私一人がいくら「正しいこと」を言ったからといって、それで社会が変わるわけではないからです。

 一人一人が自分の学校や職場で声をあげ、社会運動のうねりを広げていくことでしか、状況は良くなりません。私は討論の最後に「労働組合に入って職場で声を上げるなど、身近なところで立ち上がる人を増やしたい」とコメントしました。

 私が日曜討論で最も伝えたかったのは、この最後の一言でした。私たち皆が、自分たち自身で不当な状況と対決し、変えていく。そういう実践が今の社会にはあまりにも欠如しており、それが閉塞感につながっていると思います。

 

ー自分自身で声をあげるとは、具体的にはどういうことですか。

 例えば、職場で賃上げを求めて声を上げるといったことです。今年の2月、ABCマートでパートで働く一人の40代女性が時給を20円「賃下げ」されたことをきっかけに、ユニオンに加入して立ち上がり、会社に賃下げの撤回と、インフレの中で生活できない状況を鑑みた賃上げを求めて交渉を申し入れました。

 会社は当初賃上げを拒否し、同僚の多くも「どうせ変わらない」と女性を冷めた目線で見ていましたが、女性は他の会社で闘うユニオンの仲間たちの支援を受けながらストライキを決行しました。こうした闘いの結果、彼女はABCマートで働く5000人の非正規労働者全員の、6%賃上げを勝ち取りました。たった一人のストライキが、5000人の労働者の労働条件を変えたのです。

こうした直接的な行動により、私たちは政治が変えてくれるのを待つまでもなく、自分たちの貧困に対して声を上げることができるし、実際に変化を勝ち取ることができます。

 

 この人の考えに注目したのは、肝心要なのは政治ではない、日常のあり方だ、小さな問題意識の解決の積み重ねだという考えが明確に示されているところです。私は、「金にモノを言わせて・・・」という言い方と同じように「政治にモノを言わせて・・・」という捉え方をしてみると事情が分かりやすいと思います。

 

 またこうした姿勢は、非政治的な荘子の思想の姿勢に近い所があります。荘子では、例えば応帝王篇でもこう説かれています。引用します↓

「天根が殷山の南をぶらぶらして、蓼水のほとりまで来ると、無名人に出会った。そこで彼に問いかけていうには、「どうか天下を治めるすべをお教え下さい」。
無名人が答えていった。「うせろ、この俗物めが。何という不愉快な質問をするんだ。わしはいままさに造物者を友として遊ぼうとしているところだ。それに飽きたら、さらにあの極まりない天に羽ばたく鳥の背に乗って、天地四方の外に飛び出し、何一つない里に遊んで、無限の曠野を住みかとするつもりだ。なのにおまえは何のために天下を治めることを持ち出して、わしの心を乱すのだ」。 (『荘子 内篇』、p.259)

 


 ところで老子よりも超俗的で政治的関心が薄い荘子ですが、このニュアンスがよく分かるのが子供たちの年齢だと思います。大人は大抵なにかしら政治を語ったりしてしまうものですが、学校の子供時代に級長タイプや政治的な考えの好きな子供というのが目立ちませんでしたか?他にも運動部とかに入っていて学校の成績も対策がうまく計画とその達成力は良いが全然学問とか考えないし、"社会的に"とか言い出す子供とか。ちょうど職場でも、先日、陽キャ、陰キャと子供が悩んでいましたが、こういう子供のタイプとか見るのが分かりやすいですね。子供は非常に切実で真剣に悩むもので、その日常では、それぞれの個性がぶつかり合っています。

それを考えてみると、よく政治に無関心だと日本はこんな国にとかどうたらこうたら言い出す人が多いですが、荘子のような人があって、非政治的でもそれはその人の人生の方策であって、よって全然構わないんだと思いますよ。