https://withnews.jp/article/f0210712003qq000000000000000W02c10101qq000023308A


ナッジの鬱陶しさはあまり認められていません。私は、この排除アートの記事を読むとナッジを思いだしました。

行動経済学の本を読むと分かるように、排除アートはナッジとは違うものです。しかし、同じ臭いがしますね。経済学的行動方針というのは利益に基づいていたり、社会の推進の都合でしかありません。その事が、荘子の思想と照らし合わせると見えてきます。荘子では社会や経済の都合でないことが説かれています。やはり、社会や経済学ではないのです。(その違いが面白いのです。)

そういった目で見てみるとナッジというのも排除アートのように煩わしいものだという真の姿が浮かび上がってきます。この辺の事情は、ちょうど、以前の記事で人心掌握にも、マインドコントロール同様気を付けた方が良いと主張したようなものです。

 私の排除についての経験は色々ありますが、今回の排除ベンチと似たような経験は東京医科歯科大学時代に起きました。試験勉強で徹夜するために部室や大学の校舎で寝泊まりしようとしていると警備員が巡回に来て、“帰りなさい”と排除を行ってきました。私より少し前の先輩たちの代まで、あの大学は部室で泊まる事なんかザラだったのです。それが改革だかなんだかで排除が開始されました。私は、警備員と対した時の嫌ないざこざで排除の論理を知りました。だから排除ベンチなんかのホームレス排除は、大学に寝泊まりする不潔な行為を排除して“清潔でクリーンな”大学イメージを作るというのと変わりない事が分かります。ホームレスをやらないでもこうして排除される感覚というのはつかめますよ。因みに、私は警備員が巡回の性質や心理状況からして盲点となり見て来ない場所を見つけ出し、以後もよく寝泊まりしました。しかし、不真面目派の同級生とつるんで問題を起こした事は一度や二度の事ではないのでなんだかんだで警備員達にはすっかり顔を覚えられていましたし、こちらも特に一人の警備員の嫌~な真面目たらしい顔は忘れられません。私のような人間からするとあの大学ではこのような所に目が行くのです。