最近ある方から受験エリートと久々に言われましたが、私は小学生の頃から秀才になってたまるものか、いつか秀才でない証拠を突きつけてやるんだと考えていました。はっきり言って世に言う受験エリート層の人は多かれ少なかれみんなそう思って生きているんじゃないかと思います。

中学生の時にはアインシュタインに傾倒し、さらにその思い、つまり成績主義の欺瞞、秀才の哀れさを痛感するようになりました。

しかし、その時の私はまだ荘子の思想というのを文献等でも何も知りませんでした。

荘子をいざ紐解いてみると、早速こう書いてあります!

 

秀才は生け贄の牛だ。

 

私は長年の疑問がこのようにはっきりと思想になっているのを見て「だよね。やっぱりそう見るよね」と思い、荘子って面白いなとのめり込むようになりました。

 

・有名な逍遙遊篇から、荘子による脱秀才の三段階です↓引用

こういうのはどうだろ,小さな役所で信用を博している人,あるいは一つの村に影響力を持っている人,さらには王侯のお気に入りの人,この程度の人たちの考えなどは,さっきの湖ツバメのそれとたいして代わるところはあるまい。

 哲学者の宋栄子は,このような人を冷笑する。かりに全世界の人が彼にお世辞を言い寄ろうとも,彼がそれによって動かされることはないし,全世界挙げて彼を非難しようとも,彼の行為を押しとどめられないだろう。というのは,宋はことの本質と上辺だけのこととを区別できたし,真の名誉と恥の区別をわきまえていたからである。このような優れた人は,彼らの世代には他に例がなかった。そのような宋にしてなお,まだ自己を確立していたとは言い難いところがあった。

 さて,列子(この哲学者の生死不明。その著作『列子』は後世の著作物と考えられる。なお,「古代哲人たちの寓話」の項を参照)風を御して遊行できたという。彼はさわやかな涼風に乗って楽しげに遊行し,(風向きが変わる)15日間も悠然として止めることがなかった。幸せをつかんだ生けるものの中で,このような人物は他に見あたらない。しかしなお,この歩行に頼る必要がなかった列子においてすら,他の何か(すなわち風)に頼らざるを得なかった。

 天地の調和ある運行に身をまかせ,無窮の王土(天地)を変転する変化(へんげ)の風にうちまたがって遊行する者にとって,そもそも頼るべき何があるというのだろうか。 このようだから,「最高の人は己を空しくし,神人は功績に関心がなく,真の聖人は栄誉を無視する」と言われるのだ。」

 
 

 上の引用のなかで、マーカーを引いた最初のところが秀才の段階です。秀才とはもともと古代中国からの言葉で、簡単にいうと科挙に受かった官僚のことを指しています。この部分を見てちょうど思い出した例がありました。↓

https://www.sankei.com/article/20230428-GKFTKMBC75MS3OGIZLQTIUJ36Q/?outputType=theme_localelection2023 

 

 

つまりこういう(↑)人の事だなと思いました。絵に描いたような生け贄の牛。記事では高島氏がえらく持ち上げられていますが、私は騙されませんよ(哄笑

 

 
 

このように、私は秀才にならないことを小学生の頃から追求してきています。

 

*例えば、次のYoutube動画を、生贄の牛がなんか言っているという目線で見てみましょう。↓(勿論、このチャンネルはまともな事を言ってはいるんですけどね。)