陰謀論について以前、こんな記事を書きました。

”これが事実だとしたら、陰謀にしがみついていた場合、虚しい時間の浪費になってしまうじゃないですか!私はそういう事態を防ぎたいのです。絶望の循環にあえぐことのないように。=難しい問題ですが、思想の課題にします。”

 

私は、陰謀・(そしてテクノロジー犯罪のような場合には)加害を、仮定しない思想を持ちたいと思っているのですが、この点に関して面白いツイートを見つけました↓

 
 
 
→確かに、(陰謀が)あるかもの方はすぐ見つかります。例えば↓
 
 

つまり、陰謀がないという事を証明するのは極めて難しいため、

陰謀を仮定しない思想を持つには、(それが陰謀ではないという)証明がないまま、あいまいな事態に耐え続けるという、ネガティブ・ケイパビリティが求められるという事です。

 

しかし、この事は私の主治医が言ったように、逆に陰謀論だとすぐにふたをするような風潮でもダメだという事になります。

ふたをしてしまうとその場合もやはり、あいまいな事態に対処することにならないからです。

 

 以上の事から、陰謀を仮定しない思想というのは、つまり求められる方針であって、

すでに完成しはっきりとした確定した何かではないという事になるのが分かります。

同時に、求められる方針に過ぎなくてもそれを求める価値はあると私は考えています。

それは、↓のツイートような感覚を越えていくのです。